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幸せなずる休み [田舎のこと・母のこと]

高校に入ってから、成績が急降下した。テストが多くしかも順位付けの好きな高校だったので、だいたい真ん中くらいで入学しただろうことはわかっていたが、1年の夏休み明けの2学期から成績は急降下し、潜水艦でいえば操作不能のまま海底に船体をこすりながらさまよっている状態だった。そんなふうだったから学校も行きたくなく(学校に行きたくないのは実は幼稚園の頃からだったが)、なんというか、とにかく学校には行きたくなかった。
1年の3学期が終わって受け取った通知票はだいぶ赤が多かった。そして、2年の3学期が終わって受け取った通知票は見事に真っ赤で、ある意味美しくさえあった。この時期、不良をやっていたわけではない。普通に勉強しなければと、と思っていたが勉強してもわからなかった。だから気力も続かないし、そして、ますますわからないスパイラルに陥り、浮上する可能性の見いだせない潜水艦は、深海へ深海へと沈没していった。
ちなみに、この壊れた潜水艦のように生きていた青春のその時期を「潜水艦時代」と呼んでいる。

1年の時か2年だったか、いずれにしても冬だったから3学期だった。いつもではあるけど、そのときは特に学校に行きたくなくて、風邪だとか頭が痛いとかなんとか言って、学校を休むと母にいった。
いつもだったら
「ほら、学校さ、いがんなねごで」(さあ、学校に行かなければならないでしょ)
という母が、
「んだが」(そうか)
というだけだった。そして僕はまんまと休んだ。具合が悪いのは嘘ではないが、「行きたくない病」からなんとなく具合が悪くなっているので、まあ、行けないこともないともいえるので、半分はずる休みかなと思わないこともない。
母は朝の家事が一段落すると、居間のこたつに足を突っこんだ。四畳半の居間は南に面して、古い磨りガラスの窓を通して冬の低い陽を部屋の奥まで取り入れて暖かかった。
壁に背をもたせかけてこたつにあたれる所が母のいつもの場所だった。テレビでは小川宏の朝のワイドショーか何かをやっていたかもしれない。
休んでいた毎日、僕もこたつに足を突っこんで、母の隣でミカンや煎餅を食いながら、いつもは見ることのないテレビ番組を見て、ぼおっとしていた。穏やかな日が続き、小春日和の陽が入って暖かかった。
母は編み物が好きだったのだろう、ずっと編み物の手を動かし、昼近くになれば昼飯の用意をしてくれた。少なくともそんなだったような気がする。そのころ母はスナックをやっていてたから、昼の時間はそうやってゆっくり過ごすことが常だったのだろう。
僕が休んでいる間、母は学校に行けとは一言も言わなかった。こたつの隣に座って、僕はときどき横になってテレビを見たりしながら、冬の日だまりの中で母と過ごした。母は学校のことや勉強のことにも触れなかった。テレビの中の現実味のないどうでもいいようなことを話したりしたのだろうと思う。
朝から陽が傾くまで、何となく一緒にそうしていた。そんなふうにして母はただ一緒にいてくれた。今思えば、あったかい何かにつつまれている感じだった。
自分自身いつになったら学校に行くのだろうと不安があったが、一週間後「そろそろ行くか」と心の中で思って何事もなかったように学校に行った。
なぜ学校に行こうと思ったのか、そのときはわからなかったけれども、今はとてもよくわかる。

長い時間「母とただ一緒にいた」のは、それが最後になってしまった。自分の部屋にこもって受験勉強のまねごとを始めてからはそんなこともなかったし、大学に入ってからは、長い休みに帰りはしたものの、他のことに忙しかった。社会に出てから、ほんのちょっと家にいたことはあったが、そうした時間は持たないでしまった。
ほんとうに幸せな時間だった。豊かな時間だった。かけがえのない時間だった。可能なら今でも帰りたい時間だった。

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