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下北沢、田口アパート(4) [カメラマンになる周辺など]

鳴るあてのない電話を待つのは、寂しい。
それでも、売り込みに行かないときは四畳半の「事務所」で新しく買った留守番電話で電話を待つ、しかない。長いことそうしているとそれはそれでちょっとは慣れてくるもので、田口のおばさんのお茶をご馳走になっては「事務所」にもどり、そして時々マージャンをしてというようにして過ごしていた。
ある時電話が鳴ったので、僕は驚愕した。
世界文化社のOさんからだった。
「急な仕事だけど」
と前置きがあって、ざくっと撮影内容を説明してくれて、それで、
「空いてる?」
と聞かれた。
空いていない訳がない。
その撮影は今でもよく覚えている。花王石鹸の当時社長丸田芳郎氏を、そしてその次の日にはセブンイレブンの当時社長の鈴木敏文氏を、いずれもインタビュー中の写真を撮るものだった。
精一杯仕事をした。
それ以前にも写真で賞金とか謝礼とかアルバイト代とかを貰ったことはあったが、それがいちばん最初の「ギャラ」をもらった仕事だった。
Oさんとのご縁は、僕がAスタジオでスタジオマンという下働きをしていたときの先輩カメラマンのTさんの紹介で、
「電話入れといてやるから、世界文化社のOさんのところに行ってみろ」
とご紹介いただいたのだった。
Oさんにはその後も月刊誌の特集ページの写真を撮らせてもらったりした。海のものとも山のものともつかないカメラマンを、しかも巻頭の特集などで使うのは勇気がいったろうと思う。こういう感謝の気持ちを表すのにしっくりくる日本語を知らないが、本当に感謝している。生きている間に付き合う人はどのくらいいるのか知らないが、その中でこういう人に出会えたことを本当にありがたく思う。
スタジオマンとして住み込みで働いた時代を過ごし、それから半年くらいバイトをしてお金を貯めて、そのわずかなお金を持ってインドからエジプトまでの一年間の旅に出て。その時に撮った写真を大学生の頃によくバイトをさせてもたった釧路のT写真館でお世話になりながらプリントを焼かせてもらって。それをもって東京に戻り、田口アパートの四畳半で霞を食って・・・。
高校教師を続けていればこんな苦労はしなかっただろう、と自分の人生ながら苦笑してしまう。

ちょっと話がそれるが、
教師をしていた頃、このまま教師を続けようか、それともカメラマンの道に行こうかと悩んでいた。正確には悩んでいたのではなく、踏ん切りをつけられずにいたのだったと思うが。夏休みのある日、教員住宅でささやかに差し込む陽に当たりながら、ひとり思い悩んでいた。
そのとき、ふとこんな情景を思いめぐらせた。僕が年老いて孫をだっこしながらおじいちゃんの昔話を話して聞かせる場面・・・。
「おじいちゃんはね、昔学校の先生をしていて、でもどうしてもカメラマンになりたくて、先生をやめてね。どうもおじいちゃんはそんなに才能無かったみたいで、それから本当に苦労の連続で大変でね・・・」
(・・・相好を崩す、だろう自分)
「おじいちゃんはね、ずっと学校の先生をしてきてね。でも、本当はカメラマンになりたいなと思ってね、でもその時先生を辞めないでしまって・・・」
(・・・笑っては話せない自分。)
人生を振り返って、自分の人生を笑って語れないのはいやだ、と思った。
もちろん教員がいいとか悪いとか、どうのこうのと言うことではない。
本当にやろうと思ったこと、どうしてもやりたいと思ったことを、チャンスがあったにもかかわらずそうしなかったことを、人は笑って語れないのだと思った。
そう気づいたとき、辞めるしかなかった。

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