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下北沢、田口アパート(5) [カメラマンになる周辺など]

ありがたいことに仕事の依頼の電話もそれなりに鳴るようになり、米を主食とする日本人らしい食生活に少しずつもどっていった。
田口アパートには2年しかいなかったのかも知れない。とりあえずバス付きの所に引っ越したかったのだろう、新築間取り1Kのアパートに移った。まっ白い壁紙が、なんだか御殿にでも引っ越したような気分にさせた。そこは田口アパートからは徒歩2分くらいだったから、いつでもお茶を飲みに行けたし、相変わらず麻雀もしていた。けれども、田口アパートから引っ越すと、なんだかまた一人っきりになってしまったような、そんな気にもなった。
田口のおばさんのたばこの煙は衰えることがなかった。メンソ−ルの軽いたばこを吸っていたけれども、遊びに行くと、話しをしながらチェーンスモーカーだった。田口のおばさんはその頃ちょっと太りすぎで、どてっと横になっていることが多かった。おばさんは
「なんだか最近太りすぎて、トドみたいになっちゃったわよ」
といって上半身をうねらせて笑ったが、たしかに日光浴をするそれの姿にそっくりだった。さすがに本当にそうですね、とは言えなかったが。

その1Kにはたぶん2年もいないでイエメンに撮影旅行に行った。結局イエメンには1年と数ヶ月、そのあとドイツ・オーストリア・チェコ・ルーマニア・スペインそしてニューヨークをぶらぶらして都合2年間を遠くで過ごして帰国した。そのことはまた書く機会があるかもしれない。ないかもしれない。

イエメンなどの旅から帰って、また田口アパートにお世話になった。今度は、先にいたところの真下、1階の四畳半だった。そして部屋の中には、今度はイエメンで撮影してきたスライドの厚いファイルが40冊くらい山積みになっていた。それが僕の財産のすべてだった。独立して3年間働き、ご縁があってイエメンという国に行って時間を使い、そうしたもののすべてがこのファイルに変わっていた。

若林に引っ越し、その後明大前に引っ越した。下北沢からは駅の数でいくつかしか離れていないところだったから、時折お茶を飲みに行ったが、仕事が忙しくなるとその数も減った。「心」を「亡くす」と書いて、「忙しい」か、と思う。
明大前にいる頃のある夏、1ヶ月の撮影旅行から帰って顔を出しにいったら、田口のおじさんはなくなっていた。
そして、その何年後だったろうか、アパートを閉めるということをきいた。アパートが建っているところの土地は借り物らしく、アパートを閉めて娘さんの所に同居するということだった。お別れ会のようなこともしたのだろうと思うが、特に話を聞かなかったから、きっとまた撮影旅行に行っている間だったのだろうと思う。


ある夏の午後、久しぶりに下北沢でおりて、そこに行ってみた。我が物顔で闊歩する若者の年齢は下がり、南口の商店街には初めて見る雑貨や衣類のお店が並び、あれほどあった不動産屋はぽつぽつとあるだけだった。
そして僕のメゾン田口があったところは、駐車場になっていた。わずか10台ほどのスペース。未来永劫に田口アパートがあり続けるとは思わないけれども、目の当たりにすると、僕を支えてくれているものが脚や腕を通ってすうーっと抜け落ちて行くような、そんな感じだった。
その何年か後に、埼玉のお宅に行って田口のおばさんに一度会った。それ以来会ってはいない。

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