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Aスタジオ顛末記4〜S原さんのこと〜 [カメラマンになる周辺など]

とにかくAスタジオでのスタジオマン時代は怒られたり怒鳴られたり、カメラマンのMさんには足蹴にされたりもした。人権無視もはなはだしい小さな社会だったが、おまえがとろいからだ、いやならやめろ、文句があるならやめろ、そんな上下のはっきりした世界だった。
学生の頃にアルバイトはしたけれど、社会経験は1年間教員をしただけだったし、自分自身の正しさとでもいうのか、当時はそういうものをネガティブな意味でかたくなに持っていた。世の中のことは何も知らなかった。
電話に出れば、「その田舎訛りはなおせ」といわれ、そんなことにも反感を覚えた。そんな感情が顔に出れば「田舎に帰れば」といわれ。後になって思えば、ここは東京で東京の人たちと仕事をさせてもらっているのだから、お客様の立場に立って、つまり東京の言葉で対応するのがあたりまえのことだった。
経理のS原さんにも何かにつけて怒られた。お茶の濃さ加減ひとつでも
「わかる!?すとうくん。こんな味がしないようなお茶じゃだめなの。わかる!?」
といわれ、湯飲みの持ち方も、配る順序も、いちいち怒られた。
S原さんは、とにかく僕の顔を見かけるたびに、
「すとうくん、だめよ、そんな事じゃ。もっとさわやかになりなさい!さわやかに!わかる!?」
全くわからなかった。「さわやかになりなさい!」「さわやかになりなさい!」と言う口が酸っぱくなり、言われる耳にたこができ、それでもそういわれ続けた。「さわやかになりなさい」といわれても、さわやかになるなり方なんて学校では教わらなかったことだと頭の中で反論してみたりする。「おれのライバルはコカコーラかよ」と半分冗談で思ったりした。もっとも半分は冗談ではなく、ずっと頭の片隅に「さわやかになるって、どういうことだろう」という問いかけがあった。もちろんわからなかった。
さわやかになりなさい、と言われて人はさわやかにはなれない。決してなることはできない。できるとすれば、それを意識し続けて、「さわやか」であるということがどういう事かわからなくても、それでも、今の在り方はさわやかだったろうか、と振り返り振り返り生きることでしか変わってはゆけないのではないかと思う。その結果として、今日は少しさわやかになれたなどと意識することはできないほどの目に見えない変わり方か、ある時爆発的に違った在り方をするようになる、こともあるのではないかと思う。それが自分にとって大切なことなら、頭の片隅のいつも取り出せるところにおいて、いつもいつもその言葉・意味を意識すること、そして振り返ること。長い道を歩いて、気がついたときにひょっとしたらたとえばさわやかになっているかもしれない。なっていないかも知れない。それでも意識し続けることでしかないように思う。結果は保証できない、結果はたとえば神様の領域だから。

ちょっと話がそれるが、あるサッカーの日本代表選手が母校に帰って講演をしたことがニュースになっていた。その中で「努力すれば(良い)結果は必ずついてくる」というようなことを言っていた。そんなことを保証していいものだろうかと僕は思う。結果はわからない、それでもやり続ける、ということでしかないと思う。たとえば、サッカーをすることが自分の人生の大切な一部分だからとにかくサッカーの練習をやり続ける、のはいいと思う。たとえば、「(良い)結果は必ずついてくる」と信じて子どもたちが努力する、それは一見素敵なことのように見える。しかし、それでも必ず努力した人間が結果を出せるという保証はどこにもない。未来のことなのだから。未来や結果は自分の領域ではなく、たとえば神様の領域なのだから。「努力したけど(良い)結果を出せなかった」その「心」にどういうふうに責任を取るのだろうか。結果が実らなかったらそれはきみの努力が足りなかったからだというのだろうか。もっとやれというのだろうか。「一生懸命やったけど私にはできなかった」と植え付けたいのだろうか。「努力すれば結果は必ずついてくる」それは、努力が形として実った人だけが言う言葉なのだ。やるだけやっても実らなかった人は沈黙しているのだ。その沈黙の声に耳を傾ける必要があるのだ。

話を戻す。
昨年の夏の終わり頃、S原さんと食事をした。十数年ぶりだったろうかお会いするのは。
最近は知らないところには行かず、たまに銀座に行くだけだというので、銀座の交差点で待ち合わせをした。S原さんは相変わらすぽっちゃりしていて、年齢の割には若くて元気な様子だった。ほとんど仕事も引退して、どうしてもとお願いされている2,3のカメラマンの経理をみているといっていた。いずれは僕も経理を頼みたいと思っていたが、人に経理をお願いしなければならないほどではなく年月を経てしまった。三越の上でそばを食べながら、Aスタジオにいた頃の話しに及んだ。
僕が「あのころは、さわやかになりなさい、といわれ続けた」
というと、S原さんは
「あらやだ、あたしそんなこといったのかしら。全然覚えてないわ」
といってあっけらかんと笑っていた。本当に全く覚えていないらしい。あれほど毎日毎日眉間にしわを寄せてまで、口を酸っぱくしてまで言ってくれたのに。
そばを食べた後、ふたりで屋上に上った。以前からこんな空間があったのかどうか知らないが、屋上には人工芝がしかれ、日曜日の子供連れの親子でにぎやかだった。空は建物にさえぎられて角ばっていて、そのせいか手がとできそうなところに青い空が感じられた。そして、風は秋の匂いを含んで気持ちよかった。
「ご馳走するつもりだったけど、出してもらって悪かったわね」
といわれた。スタジオを出た後もS原さんには何度もご馳走になった。僕が出したのは初めてのことだった。いつだったか何か欲しいものはないかと聞いたら、旅行に持ってゆける小さな爪切りで良く切れるのが欲しいといわれた。しばらく探してこれといったものが見つからず、どうしたものかと思い悩んでそのままになってしまっていた。S原さんはそんなことは忘れているだろうが、僕の記憶にはずっと残っていて、今日のことは小さな小さな贖罪なのだと冗談に言った。
「さわやかになりなさい!」と言われてから30年近くも経って、未だに「さわやか」であるということがどういう事かわからないし、今の僕が「さわやか」になったのかどうなのかわからない。ただ、20代のまだおろしたてのスポンジのような時に、そんなS原さんに出会えたこと、口を酸っぱくしてそういってもらえたことをほんとうに有り難いと思う。

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