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Aスタジオ顛末記1〜いざタコ部屋〜 [カメラマンになる周辺など]

高校教諭をしていたその年末年始の休みに東京に出て、コマーシャルフォトだったかアサヒカメラだったか写真雑誌のうしろに載っている「スタジオマン募集」をあてに、とにかくあちこちの貸しスタジオを訪問しようと思った。そして、できたらどこかしら働くところを決めようと思っていた。
大学生の頃に「なるにはブックス」という、何々になるにはどうしたらいいかということを書いたシリーズ本の『カメラマンになるには』という本を読んだことがあった。しかも2度読んだが結局よくわからなかった。どうやってもカメラマンになれるし、どうやったらいいのかやっぱりよくわからない。雑誌で毎月目に入るスタジオマンとやらになることしか、具体的なステップとしては思いいたらなかった。
六本木・麻布・赤坂あたりのスタジオに実際にいってみると、正月だということで、休みだったり、ホリゾントを新しい白で塗り直していたり。当時有名なRスタジオでは、スタッフが建物の前の路地でキャッチボールをして遊んでいた。それぞれだった。僕が後日勤めることになるAスタジオは、確かにお客さんはいなかったが対応に出た当時セカンドのYさんが、スタジオでの仕事をいろいろと説明してくれて、そのあと「折角だからスタジオ見てみる?」と僕を促して、駈けだしていった。後日勤めるようになってわかったことだが、何をするときにもとにかく「走る」。僕もすぐに走ることが習い性になることになったが。そんなYさんの後を追うようにして息を切らせて走ってついていった。スタジオを一通り見せてもらってもとの応接セットに戻り肩で息をし汗をぬぐいながら、ここがいい、と思った。Yさんは宣伝のつもりで「うちのスタジオからは篠山さんの事務所にも助手に行くし・・・」といっていたが、そういうことは僕にとってはあまり大事なことではなく、ひたひたと滑るように走ってゆくYさんの後ろ姿に感じるものがあったのだった。

赤坂にあるそのAスタジオに勤めることになった。試験や面接はない。スタジオ見学に行ったその後、電話をして「いついつ行きます」と伝えて、それで話は決まった。教師になるのとはわけが違って簡単だった。3月末まで北海道で高校教諭としての残務整理をして、山形に立ち寄ったものの、その足で赤坂のAスタジオに行ったのだった。
勤めるというと聞こえは普通だろうが、その頃のそのスタジオでのスタジオマンという仕事は、まあ、ようは雑巾のように何でもやるという感じだった。スタジオ内の機材の準備やセットはもちろんのこと、「もうちょっと薄い赤のバック紙がないかな」といわれれば、走って取りにゆくし、「これをこう持っていろ」といわれればもういいといわれるまで持っているし、「マクドナルドで、これこれを・・・」といわれれば、走って買いに行くし。「どこか弁当を頼みたいんだけど」といわれれば近くの出前してもらえるところのメニューをさっと出し、弁当が届くと同時にお茶をいれ直し。食べ終わったらまたお茶を入れ直して、さっと後片付けをして。撮影が終わったら終わったでぐちゃぐちゃになったスタジオをとっとこ後片付けをして、ホリゾントを使えばスタジオが全部終わった夜にきれいに磨いて、必要だったら塗り直しをして。
やることをいちいちあげたらきりがない。

当時スタジオマン仲間は、出入りはあったもののたいがい10人前後いたように思う。住み込みだったが、泊まる部屋とかベッドがあったわけではない。先輩はそれぞれどこかのスタジオで寝ていたが、ときどき、階段で行き倒れのようにして寝ている先輩もいた。後でやってみてわかったが階段の段々に体を這わせるようにして寝ると、ぐったり疲れた体にはこれが案外と気持ちがいい。僕をいれて新人4人は事務所で寝ていた。地下に炊事場と布団と私物置き場があって、毎晩布団を1階の事務所まで持ってあがって寝る。事務所で寝るというのは、一応24時間営業ということになっていたので、いつでも電話をとれるようにということであった。実際には夜中に仕事の電話がきたことはない。僕自身は受けたことがない。あったのは、六本木あたりで飲んだ社長が酔った勢いで気まぐれに電話をしてよこしたくらいだった。
新人は6時半に起床、それから買い出しに行って朝飯を作る。新人の中でも僕がスタジオに入ったのが一番遅く、つまり一番下だったから、他の新人も手伝ってはくれるけれど、食事は基本的には僕の仕事ということになっていた。6時半の起床というのはそれだけでは特に早いとは思われないかも知れないけれど、夜はたいがい11時か12時、おそければ1時頃から「ミーティング」という反省会が行われ、その後機材のことを勉強したりしてから寝ていたので、初めの頃は3時頃に寝ていたのではないかと思う。
厳しいだろう事は承知で入ったが、食事を作らなければならないとは知らなかった。自分の食事もろくに作ったことがなくて、せいぜいがカレーライスくらい。それを今日から10人分、一日2回作れと。午前は9時半頃を目安に作り、夜は7時半頃だったように思う。メニューを考える。まずこの苦痛から始まる。料理本も置いてあるので参考にはするが、作ったことのない人間には、いちからわからないのだから参考にはならず、料理の本は作れる人が見てこそ参考になるものだとはじめて知った。二十歳そこそこの男たちが働きづめのあげくに食う食事だから、とにかく肉料理を出せといわれていたので、ショウガ焼きとか、肉野菜炒めとか、作れないなりになんとかしたのだと思う。料理の仕事の救いは、週に2食メニューが決まっていて、火曜日の夜はとんかつ、土曜の夜はカレーライスだった。メニューが決まっていて、何を作るか考えなくていいだけで本当にありがたかった。
そのころのチーフは、食べることには細かいことも気になる人で、とんかつの付け合わせに切った千切りのキャベツをつまみ上げて、さも不快そうに
「だれだよ、このキャベツ切ったのは。人に馬の餌食わせんじゃあねぇよ」
と、キャベツを皿に捨てるように戻した。確かに幅は太くてとうてい千切りとはいえなかったと思う。だけどもできないのを承知でやらせてるんじゃないか、といいたい気分だった。もちろん決して言えなかったが。
ある時、料理本に載っていたので豆ご飯をした。チーフは
「オレ豆きれえなんだよなぁ」とまたもさも不快そうに豆を一粒ひとつぶ箸でつまんではご飯から除いてすてた。このときはなんだか悔しくて悔しくて悔しくて目尻がにじんでしまったのを覚えている。
それにしても写真のことを学びに来たのに、なんで食事作りでこんなに辛い思いをしなければならないのか。食事を作らなければならないとあらかじめ知っていたら、決してAスタジオには入らなかった。
余談になるが、1年くらい経った後、あるとんかつの晩に、チーフがキャベツを箸でつまみ上げてまじまじと見ながら
「今日の千切り切ったのは誰だ」と聞くので、僕だと答えると
「・・・100点だな」とひとこと言った。料理の修業に来てるのだったらよかったが、生憎専門が違うので、今さら料理をほめられてもなあとドライに思う自分がいた。この時代に料理作りは鍛えられた。腕の善し悪しは別としても、たいがいのものは苦痛を覚えることなく作れるようになった。

勤めて3ヶ月は新人ということで休みがなかった。毎日へろへろだった。そしてその3ヶ月間は月3万円の小遣い(?)ということも決まっていた。休みがないのだからお金の使いようもないのだが、Gパンが破れてしょうがないので仕事の合間に近くにそれを買いに行く時間だけもらった。
毎日辞めたいと思っていた。ここがこういうところだと知っても、来たときからすでに僕の戻るところなんてどこにもなかったし、教師を辞めてこの世界に入って、途中で辞めて田舎に帰ったら悔しすぎる。もっとも、ふっといなくなる人もたくさんいたが。
修行というか試練というかタコ部屋生活というか、そんなことがいやとなるほど続いた。この時代虫歯がなかったのは幸いだった。歯を食いしばって頑張り抜きたいとき、悔しさを奥歯でこらえて耐え抜きたいとき、虫歯が痛くて頑張れなかったり耐えきれなかったりしたのでは、人生あまりにも悲しすぎるから。
あごの筋肉も発達した。

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