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白布高湯の赤とんぼ [田舎のこと・母のこと]

僕が幼い頃、ばっちゃ(母方の祖母)はよく湯治に行っていた。
僕の記憶では、白布高湯という山奥の温泉の何件かある大きな旅館の一つにいっていた。古い大きな木造の旅館だったと思う。少なくとも「しらぶたかゆ」というその響はよく覚えているので、そこであるのは間違いない。白布温泉は米沢から福島の磐梯山の方へ抜けてゆく途中、吾妻連峰の中腹にあって、今のように秘湯がブームでもなかったし、ただ不便なところにある湯治温泉宿というだけのことだった。
そこには宿が三軒あって、東屋と中屋と西屋。どこにとまっていたのかは知らない。
昔の宿の常で、建て増しに建て増しをしてゆくから、旅館の中は迷路になっていて、幼かった僕には、どこがどうなっているのか全くわからなかった。それだけに冒険ごっこができて楽しかったのかも知れないが。
当時の湯治というのは、宿代は純粋に宿代として安く、布団はいくら、朝ご飯はいくら、煮炊きをすれば薪はいくら、というふうに、それぞれ別料金になっていたのではないかと思う。自分の都合に合わせて、今回は短い滞在だからご飯は頼んでしまおうか、などというようにしていたのではないかと。

ばっちゃはトクホンをぺたぺたと二列に並べて背中に貼っていて、いつもトクホンの匂いがした。それから椿油を使っていたから、その匂いも混じっていたのだろうか。余談だが、どうしてだろうか、僕が小さい頃からばっちゃが死ぬときまで、ばっちゃはばっちゃで、変わらないままだった。こういうことは友達と話しをしてたまたまこんな話題になったときに、みんな口を揃えて同じように言う。ばっちゃは僕らが生まれた頃からばっちゃのままだ。なぞだ。
僕が覚えているのは、そのばっちゃは畳敷きの大広間にいて、そこにはばっちゃと同じようなばっちゃたちがたくさんいた。個室ではなくそこで寝ていたのかも知れない。その方がばっちゃどうしの親睦もはかれるし、安上がりでいいのかもしれない。そういえばある哲学者が言っていたが、湯治場というのは情報交換の場そのものだったと。そうなのだろう。
僕は長く宿にいた記憶はない。たぶん、ばっちゃが帰る前日に迎えに行って、ついでに一泊したとかその程度なのだろうと思う。母が一緒だったとは思うけれども、他には誰が一緒だったのだろうか。よく覚えていない。

年寄りが湯治に行っているのだから、外に散歩に行くということはなく、宿の中で温泉に入ってはあがり、あがっては入りを繰り返し、そして、しゃべって、食べて。風呂から上がると大きな部屋の窓際でゆっくりしていた。風がよく入った。トクホンの匂いはしなかった。宿の人が置いてくれたものだろう、新聞があった。初めて新聞というものを目にした、という記憶がある。もちろん内容などは全くだけれど、いちばんうしろのページにテレビの番組欄が載っていて、テレビの番組だなというのはわかった。

みんなで外に出ていたのは、帰るためだったのだろう。斜面の下に宿が見え、その一面に広がるすすき。
そして、ものすごい数の赤とんぼが右に左に群舞していた。とんぼ取りをするにはまだ小さすぎた。晩夏の白布高湯の高原の空一面に舞っていた赤とんぼ。網を振れば、10匹でも20匹でも一度に入ってしまいそうなほど、永遠にとんぼ取りができそうなほどの赤とんぼ。

今、僕は「赤とんぼ」を聞くと、こんな光景を思い浮かべてしまう。
初老の男性が故郷を離れて暮らしを立て、どこかの田舎かそれは故郷であってもいいが、ある夕暮れどき、たまたまさおの先にとまっている赤とんぼを見た。そのとき「赤とんぼ」というキーワードがスイッチをいれ、何十年かの人生を一瞬のうちに回想する。自分の人生が走馬燈のように巡る。どのような人生を送っただろうか。大成したとしても、そんなにいいことがなかったと思うような人生だったとしても、一瞬のうちに自分の生きてきた様々なことが思い起こされ、そしてふとまた感慨から我に返ると、やはりそこにはいっぴきの赤とんぼがまだとまっている。あっという間に人生は過ぎ去り、過ぎてしまえばそれは一瞬の夢に似て短い、そんなふうに人生を思い返す。
僕にはそんなふうに感じられてしまう。

夕焼けこやけの赤とんぼ
 とまっているよさおの先

この歌詞を書いた三木露風は、この詩の発表当時32歳。露風の両親は彼が5歳の時に父親の放蕩が原因で離婚とあって、手元のもので見たかぎりでは(たぶん父方であろう)祖父のところに引き取られて育てられたとある。「負われて見た」というその背負ってくれた人は、僕個人的には、それは母であって欲しいと思う。母の背の感触、母の声、母の匂い。「負っていた」のは一般的には姐や(子守娘)と解釈されるようだけれども、母とは物心がついてからすぐに別れていることを思うと、母への思いもひとしおであったのではと。
幼い頃に遊び場だったろう自然。桑の実を摘めばわかることだが、つぶれた実で手が黒く染まり、すぐには落ちない。洗っても洗っても落ちなかった手に着いたあの桑の汁さえ、それさえも過ぎてしまった過去、手の届かないまぼろし。
身の回りの世話をしてくれたであろう「姐や」は嫁いでいった。この曲は自分を背負ってくれた姐や(子守娘)を思い出して作詞したと言われているそうなのだが、そうしたらなおのこと、一番身近にいたであろう少し年上の女性にどんな思いを男の子は抱いていたのだろうか。時が経てば嫁ぎ先からの挨拶状もなくなり、姐やへの思いだけが、時計が止まったように少年の心に残る。
どのように解釈しようとも、ある意味では露風の心そのものではないだろうし、また、これ自体が既に「赤とんぼ」として生きているのだから、感じたままに受け取ればいいのだろうと思うが、僕なりの講釈をつけてしまった。

夕焼け小焼けの赤とんぼ
 負われて見たのはいつの日か


山の畑の桑の実を

 小籠に摘んだはまぼろしか


十五で姐やは嫁に行き

 お里のたよりも絶えはてた

「赤とんぼ」は、ややもするとあれは僕の思い違いや夢であったのかと思うほど遠い記憶になってしまったあの白布温泉での光景につながってゆく。遠い記憶であろうと、一秒前の過去であろうと、それはどちらにしても手の届かない夢に似ているけれども、それでいて、確かに今の自分の一部分になっている。

幼稚園でスキップができなくて、とても恥ずかしくて悲しくて切なかったことがあった。その時のモッズを着た幼稚園児のぼくに出会うと、僕はそのぼくをきっつく抱きしめてあげたい気持ちになる。僕は子供だった頃のぼくにふとした瞬間に出合い、そしてその頃のぼくの心に触れてしまう。そのとき、たまらなく愛しく、抱きしめたい思いになる。感傷的に言うのではなく、その頃の幼い自分が確かに今も生きているから。今の自分の心の中で、幼い自分の心臓の鼓動が響いているから。
さおの先の赤とんぼを見ている初老の男性の中にも、母に背負われた幼い自分の心や、姐やに淡い気持ちを抱いた自分の心が、生きている。そして、赤とんぼはそれに触れる秘密の鍵。

僕には赤とんぼの記憶がある。晩夏の白布高湯の高原の空一面に舞っていた赤とんぼ。夕焼けでもないのに空が茜色に染まってしまうほどの赤とんぼ。五十になった今でも、その赤とんぼが舞う光景を確かに覚えている。あれは確かに僕が見た光景。もうセピア色も退色してしまい、写っている人の姿もはっきりしなくなってしまったけれども。
「赤とんぼ」は、僕の古いアルバムの表紙の片隅に描いてある。

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by NO NAME (2011-05-11 20:26) 

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