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写真展のこと3 〜真夏の打ち上げ花火〜 [カメラマンになる周辺など]

たとえば、写真をどのくらいの高さに飾るかで、その写真の印象が大きく変わる。このくらいかなと思う高さから2センチも高くなったら、写真はずいぶんと偉そうになってしまう。低すぎれば萎縮してしまう。写真の間隔、それに角からはどのくらい離したらいいか。もちろんどの写真をどこに飾るかなど、ひとつひとつが写真を見る新しい視点を学ぶ機会だった。

写真展用の無料の会場では、たいがい献花はお断りといことになっていて、このドイフォトプラザでもそうだったのだが、僕が案内に書くのを忘れて、初日の夕方にはいっぱいの花が届いた。一つ一つと届くたびにサインをして送り主の名前を見ては、ああ、あの人からだと本当に嬉しく思った。大学の恩師からも届いた。特別ですよ、と係の方の許しも出て会場にずらっとならべて飾った。花はいい。黒い四角い空間の空気が柔らかくなって、そこにいる人の気持ちまでもが和む感じがする。なにより、人の思いがちゃんと伝わってくる。
初日の夜のオープニングパーティーには本当にたくさんの人が来てくれた。僕は会場の中にいて酔っぱらっていたからわからなかったが、誰だかが
「すとうさん、大変なことになってますよ。入りきれなくて階段の下までいっぱいですよ」と教えてくれた。こうした案内の常として、会場に入る人よりも余計めに案内を出すが、ほとんど来てくれたのだろうか。ご挨拶もできない方がたくさんいて申し訳ないとは思いながらも、会場はごった返してどうしようもなかった。こんな夏の盛りにありがとうございます、とにかくまあ飲んでいってください、という気持ちだった。お酒も用意していたが、お祝いに持ってきてくれた赤ワインとビールやらで飲みきれないほどになっていた。

真夏の朝の渋谷は遅い。夏休みの期間ということもあって、9時に渋谷の駅を降りて大きなスクランブル交差点でもそれほど人通りはなく、山手線に平行した道をカメラのドイまで歩く。渋谷にしては閑散としている。途中のハンバーガーショップでハンバーガーとコーヒーを注文して、窓に向いた丸イスに座って簡単な朝食をとる。そこでゆっくりするが、それでも10時よりもだいぶ前に会場に着いて、そのまま夕方の閉める時間までそこにいるのが、その週の日課になった。不思議とその週は仕事が入らなかった。
会場に明かりを入れ、BGMを流し、受付の準備をする。それからペットボトルに水を汲んで、ずらっと並んだ大小のアレンジメントの一つ一つに水をやる。そして、誰もまだいない会場でひとりでイエメンの人たちをしばらく見ている。
視線のエネルギーが長方形の会場の中央あたりに集中し、この人たち一人ひとりを懐かしく思いだし、そしてこの人たちに会って、こうしてこの一人ひとりの視線を通して人はかけがえのない存在であり、人は確かに繋がっているのだということを伝えるためにイエメンに行ったのだと改めて思う。一人ひとりの視線を感じながら、どれもがかけがえのない出会いであったと思う。
こうしてひとりで展示された写真を見ている時間は、贅沢な時間だった。

朝日新聞のマリオンという情報コーナーにも写真付きで載せてもらったということもあって、たくさんの人が見に来てくれた。初めてお会いする方で、二日続けて来てくれた人もいた。彼は会場の真ん中あたりに置いたベンチに30分以上も座って写真を見ていった。僕が毎朝早くに座って一人ひとりの視線を感じていたその場所に座って、何かを感じて味わっていった。見に来た友達が絶対見た方がいいからというので来ました、といってきてくれた人もいた。『ピア』を丸めてもったカップルが来てくれた。いつもの友達、久しぶりの友達、大学の恩師で釧路を離れて八王子に住んでいらっしゃる先生、それから葉山にすんでいらっしゃる恩師※もきてくれた。僕が席を外したときに来てくれた見知らぬ方は「波動の高さを感じます。ますますのご活躍を」とメモを残していってくれた。この年の春にプレスツアーで一緒になった編集やカメラマンや旅行関係の人がまとまって来てくれたりもした。こうして足を運んで写真を見てもらえたことは、本当にありがたいと思ったし心から嬉しかった。

何日目かの夜、明大前のマンションのベランダに脚立を立てた。そこに座ってオープニングパーティーで残った赤ワインの栓を開けて、それを味わいながら僕はひとり泣いた。8階から見える住宅街の窓の明かり、その中を左から右へと京王線の車両の蛍光灯が煌々と輝きながら明大前駅に停まろうとする。すべてがにじんで何もはっきりとは見えなかった。明日までにはこの目の腫れはひかないだろうな、と思いながらも涙があふれてしかたがなかった。今晩はこのままぼくを泣かせておいてあげようと思った。
様々な思いがぼくの心のひだのあちこちに触れていた。このときの感慨をうまくいう言葉が今でもわからない。充実していなかったかといえば充実していたし、達成していないのかといえば成し終えた感じもあるし、だからといって充実感や達成感といった言葉でまとめきってしまえる感じではなかった。

中学生だった頃、近所の本屋で、アサヒカメラやカメラ毎日や日本カメラなどの写真雑誌をよく立ち読みした。同じ町内なので、お店のおじさんとは顔見知りなだけに、ヌード写真などがあるとちょっときまりが悪い思いになって、どきどきして少し体が汗っぽくなって。それでも写真に興味があったから立ち読みを続けた。どの写真雑誌にも新刊の写真集の案内や写真展の案内のコーナーがあった。そのページになると、ああ、こんなふうに写真集を出したり写真展がしたいな、できたらいいな、とあこがれを持って見ていた。いつもいつもこのときのことを思い出したり、この時のことを考えていたわけではない。遠いあこがれは伏流水になって流れていたのだと思うし、はるか見えなくなりそうになりながらも、赤いテールライト※※が僕を待っていてくれたのだと思う。
写真展を一回したからといって何かが変わったというものでもない。確かに変わったのは、パネルが場所をとって、狭い部屋がますます狭くなってしまったことくらいだった。自己満足といってしまえばそれまでのことだけれども、これが確かに僕が作りたかったもののひとつだし、これでいいのだと思った。

写真展が終わった次の週、用事があってドイフォトプラザに行くと、係の方が、本当は内緒なんですけどね、木村伊兵衛賞の選考の人がすとうさんの資料をくださいってもらっていきましたよ、と教えてくれた。木村伊兵衛賞か。文学界でいえば芥川賞のようなもの。選考のシステムを知らないが、図録を作ったわけでもないし、まさかもらえるとも思わないが、そういう方にも多少は評価されたのだろうと嬉しかった。

山形の年老いた母は甥に連れられて、見に来てくれた。明大前の狭いマンションに一泊して、次の日またもう一度見るといって会場に来て写真を見て帰った。嬉しかったのだろうと思う。
思い返せば、せっかく来てくれたのに何もかまわずじまいだった。
「体さきーつけでな」(体に気をつけてね)
と言って田舎に帰って行った。

一週間の打ち上げ花火はあっという間に終わった。
4冊の芳名帳に見に来てくださった方々の名前が残った。







※ 国語科教育が専門だったK村先生。お亡くなりになったことを聞き、結局お会いしたのはこのときが最期になりました。ありがとうございました。(合掌)
※※ 中島みゆき「ヘッドライトテールライト」
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