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丹波湯 [田舎のこと・母のこと]

半年ほど前だろうか、A町に行ったとき元湯という共同浴場に入った。この元湯というのは新しく作られた建物で、この風呂ができてその代わり丹波湯と大湯という共同浴場がなくなった。
湯上がりにふと壁を見たら、なくなってしまった丹波湯と大湯の写真が額に入って申し訳に飾ってあった。ちなみに、家から大湯は近くなかったのでほとんどゆくことはなかったが、A町の温泉街付近に点在するいくつかの共同浴場の中でも、ダントツにひなびた風情が残っていて一番好きだった。それに大湯という名前とは裏腹にダントツに一番小さかった。昔はなかった駐車場ができたりしたものの、ちょこんとしたたたずまいは何十年も前からほとんど何も変わらずに時代に取り残されたようにしてあった。

ついでなので言わせてもらえば、新しくできた元湯というのは、土地の人が入るにしても、あるいは観光客が立ち寄る地方の温泉町の風呂としても、この風呂は作りがあまり良いとは言えない感じがする。それは、洗い場も風呂もどこか角張ったツンとした感じで、何度かはいったがいつもどこか落ち着かない感じがする。人と人がここで何かを話すとか話さないとかは別にしても、コミュニケーションをとりにくい作りになっている感じとでもいうか、あるいは、スムーズに気が流れない感じとでもいうのだろうか。設計した業者は共同浴場などには入りにこないのだろうし、この町のここにこれがあるということの意味をあまり理解しないのだろう。
僕は、今はこのA町の人間ではないけれども、この町のこのすぐ近くで生まれ育ち、電車で米沢の高校まで通学していた頃には、温泉を一風呂浴びてから7時少し過ぎの電車に乗ったりもしていたので、少し辛口かもしれないがこのくらいのことは言わせてもらってもいいかなと思う。
・・・温泉の話しだけにちょっと熱くなってしまった。


僕が生まれて間もない頃だと思うが、母はそのなくなってしまった丹波湯という公衆浴場をやっていた。
今はたぶん管理人としての契約になっていて、入湯者の管理と清掃をするだけだと思うのだが、その当時はそこを入札で丸ごと借り受け、その代わりそこでは石けんやタオルやカミソリなどを売ったりしてもよく、その売り上げは個人の収入にすることができたらしい。

母は入札などには行ったこともないし相場も全く解らなかったが、とにかく仕事をしなければならなかったから、ともあれその入札会場に行ったらしい。
母の話から想像するには、入札の係が何人かならんでいるなかで、その場で金額を書きこみ、順々に箱か何かに入れていったのではないだろうか。
母はほんとうに全く見当もつかなかったらしいが、ならんで順番を待ちながら、そこにいた何人かの入札係を見ていたらしい。ある入札係が頬杖をついていて、その頬杖をついた、その頬に当てた指を見て、金額がぴんときたのだそうだ。母が落札した。
母はそういう何かが利く人間だった。母のそうしたことがいつも家を助けていた。

tanba-yu-2.jpg
丹波湯 昭和32年2月撮影 とのこと

この建物自体は僕は記憶がない。この丹波湯の写真は、右下には昭和23年5月完成、昭和32年2月撮影、とある。僕が生まれる3年前の撮影ということになる。母がまだ実家の「油屋」で仕事をしている頃に僕はそこで生まれて、その後のある期間をこの建物で仕事をした。そして、まだ乳飲み子だった僕を育ててくれた。

実家の物置には、丹波湯で仕事をしていたときに商品として仕入れた、貝印のT字型使い捨てカミソリのカンカラが残っている。ある時には母の針と糸が入っていた気もするが、最後に見たときには、こまごまとしたものが乱雑に入っていて何が入っていたか思い出せない。唯一思い出せるのは、頭がニコちゃんマークの画鋲だけだ。誰かにもらって、かわいかったのでとっておいたのだろう。頭のところは相変わらず黄色い顔して口角を上げて笑っていた。

僕が物心ついたときの丹波湯は、少しだけ場所も移り、当時としてはモダンに生まれ変わっていた。そのころの入湯料は5円だった。10枚綴りの「湯札」を買っておき、それを一枚ずつちぎって風呂にゆくとき持って行った。
「ほらほら、湯札忘れんなよ」
と、よく母がいっていた言葉が聞こえそうだ。


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