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卒業の頃に・・・(1)プロローグのような [学生の頃のこと]

大学4年の頃のこと、それから高校の教諭になって、そして辞めたあたりのことを書こうと思う。あの頃のことを納得していないわけではない。しかし、すっきりしているとも言えない時間だった。さまざまな思いが消しきれないまだらなシミになって残っていて、何かの折りに顔を近づけてよく見るとその時の感情そのままが甦ってしまうが、それでもこうして書こうと思うのは、この時間も僕なりに悩んだし、大風呂敷で肯定的にいえば、自分の人生を僕なりに一生懸命に考えた時間でもあったから。

S原さん※にはサッカーに夢中になっている中学生の男の子がいるが、あるときS原さんはこんなことを僕に言った。
「この子にどうなって欲しいとか、何になって欲しいということは全くないけれども、ただ、「自分の人生」を生きて欲しいと思う」
と。S原さんの言っていた「自分の人生」ということを僕は正確に理解しているのかどうかわからないが、ある人は、いとも易々と当たり前のこととして「自分の人生」を生きるのだろう。またある人は、求めても探してもこれでもないこれでもないと、時間を費やしてしまうのだろう。

詳しくは知らないが、アメリカの心理学者が年老いた人たちに、こんなことをアンケートしたそうだ。※
「人生を振り返って、後悔していることはなんですか?」
人生の収穫時期をも過ぎ、冬を迎えようとしている人たち、その人たちの回答の「9割が同じパターン」だったそうだ。
それは、「しようと思ってしなかったこと」を後悔していると。
アメリカのことだから、直訳としてはたぶん「チャレンジしなかったこと」というのではないかと想像するが、ともかく
この結果には大きなヒントがあるように思えた。つまり、逆に考えれば、自分がこうしたいと思ったことをやったら、かなりの高い確率で後悔しないといえるということ。
二十歳の頃にそんなことを知っていたら、もうちょっとすっきりと過ごせたかも知れないが、このことを知ったのは四十も過ぎてからだった。

今の大学生は就職を考えるにあたって自己分析をするらしい。自分探しの旅をしたりもすると聞く。
「ジョハリの4つの窓」※という気づきのグラフモデルというのがあって、人はそれぞれ4つの側面を持っていて、それは、<1>自分も他人も知っている自分、<2>自分が知っていて他人が知らない自分、<3>自分が知らなくて他人が知っている自分、<4>自分も他人も知らない自分、があるという。
「自分も他人も知らない自分」のところを「未知の窓」というのだそうだが、その自分さえも知らないそのジブンもまた自分であり、そのジブンもまた感情や夢やそんなものを持っているかも知れない。自己分析をしたり他人からフィードバックをもらったりして未知の窓を覗くことになるかも知れない。それでも見ることができるのはほんの少しなのだろうと思う。
その覗ききれないところに、たとえば「しつこく心をよぎるなにか」とか、「何かわからないけど気になる」と思うようなこととかがあって、それは芽生えてさえいない何かの種がある印ではないだろうか。そして、自己分析に偏ったときに、つまり分析してわかったことだけに重きを置いたときに、その種はその陰の中で芽を出すどころか、存在が忘れ去られて終わってしまうかもしれない。素敵な花を咲かせたかもしれないその種が。
もっと自分の何かを信じてもいいのではないだろうか。自分の心の声を聴くとかいうけれども、その声はただの「あー」とか「おー」とかいう音でしかなかったりするかもしれない。それでも聞いて欲しくて力の限り声を出す。
そんなただのうなり声にしか聞こえないような自分の声のそばに座って、そして丁寧に耳を傾ける。「自分の人生」ということのヒントを伝えてくれるかも知れない。
僕は自分探しの旅などしたことはないように思うが、胸がかきむしられるような何ともいえない煩悶を繰り返しながら、ある時間を過ごしたことはあった。そんな意識で過ごした時間の中には、何かヒントがあったかも知れないと思う。

「自分らしく生きたい」とか「納得ゆく人生を送りたい」とか「幸せになりたい」とか、最近でこそあまり考えないようになったが、よく考えていた頃もあった。もし今納得がいかない人生を過ごしているのであれば、何かを変えなければ納得ゆくようにはならない。何かスイッチを入れ替え、行動を変えなければ納得ゆくようにはならない。当たり前のことだ。「自分らしく生きる生き方」「幸せになる方法」そんなものは決して本には書いてないし、誰かに教えてもらうわけにはいかない。ヒントは自分自身の内側や、あるいは自分が出会う中にあって、自分で見つけるしかないのだろう。ヒントを読みそれを積み上げる。そうしたときに腑に落ちるような何かに出会うかもしれない。

僕は今ちょうど50歳で、8月には51歳になる。今までを振り返り、新たに歩んでゆくには、僕にとってはちょうどいい歳だと思う。道のはじに腰を下ろし、少しぬるくなってしまった水筒の水を飲み、そして今まで歩いてきた道を振り返ってみる。50年かけてこれだけかと、苦笑するのだろう。それでいい。なんと愛しいわずかな道のり。迷ったり立ち止まったり、途方に暮れたり。そんなことが多かった。
過去をやり直すことはできない。でも、立ち止まって見つめ直して新しい礎にするには、僕にとってはちょうどいいところに来たように思える。
いままで歩んできた道を心の中でトレースし、そして味わい、少し長めの途中休憩をしようと思う。










※Aスタジオでお世話になったS原さんとは別の方。
※聞き覚えであり、出典等はわからないし、不正確かも知れない。
※ネットで調べれば詳しくわかりやすい解説がたくさんある。
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