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卒業の頃に・・・(6)コレクトコール [学生の頃のこと]

僕はその日札幌に行かなかった。その面接に僕は行かなかった。もうこれで本当に教師になることはない、教師への道は終わりだなと腹を決めた。

採用試験にはB採用で合格し(その年は高校の国語の教諭に関してはそれなりの人数が採用になったようだった)、教育委員会からいついつ札幌に面接に来るように、という通知が届いた。当時の北海道の教員採用試験では、「合格(A)」「合格(B)」というふうに通知が来たと思う。(A)合格は来春からの採用が約束されるもので、(B)は一応合格ではあるけど都合によって採用したりしなかったり。
面接にこいというのは、採用するということを意味していた。その面接に行けば、赴任校が言い渡されて、それで受験者が了解すれば、その高校に来春からめでたく新任教諭として配属という段取りになっていた。

六畳一間のアパートで、面接の通知を何日も目の前にしていた。僕はまるで壊れたメトロノームだった。バランスを崩しながらああでもないこうでもないと揺れていた。踏ん切りをつけたはずなのに、割り切ったと思っていたのに、こうして実際合格通知が届き、面接の連絡が来て、ここまできても、このまま教師として働いてゆくということに、カメラマンにはならないということに、迷っていた。
「すっきりしない気持ち」そんな言い方がぴったりだったかもしれない。こんなすっきりしない気持ちのまま教壇に立っていいのかという、心の奥の片隅での誰かの小さなささやき。
こんなすっきりしない気持ちで、どこかにカメラマンに・・・、そんな気持ちで教壇に立ってはいけない。
そして、壊れたメトロノームは止まって、高校教諭という選択肢の上には黒のマジックで線が引かれて消された。
札幌は、来なくていいといわれたり、来いといわれて行かなかったり。

カメラマンになってから知り合ったライターの女性の話しなのだが、20代の頃に航空会社のスチュワーデス(当時はそういっていた)の試験を受けて、ものすごい高倍率のなか最終面接までいったのだそうだ。ところがなんと、こともあろうにその最終の役員面接に遅刻してしまった。面接室に一応通されて入ったら「飛行機はもう出たから」といわれて終わったのだそうだ。
世の中はそういうものだろう。大学生で世の中を全く知らなかった当時の僕でさえも、もうこれで本当に終わりだという覚悟だった。


それからしばらくたって、教育委員会から電話がきた。電話のない僕の所にではなく、山形の実家に電話がいった。それで、母から僕のいた由利アパートの大家さんに電話がきて、大家さんがそれを僕に伝言してくれて、それで、僕がコレクトコールで母に電話したというわけだった。携帯電話もメールもない昭和時代という昔のことだ。

城山十字路の電話ボックスの中で、母が教師になって欲しいと切々と語るのを、僕は受話器を握りしめて聞いていた。
田舎で生まれ育った母、お金には苦労しっぱなしだった母、息子に夢を託した母、僕を愛してくれた母。北海道で教師をして、いずれ山形に帰ってきて教師を続けて欲しいと望んでいた母。
そんな母の声を聞きながら、言葉を探すことさえもできずにいた。
母は最後にこういった。
「車でも何でも買ってけっがら、頼むがらせんせえなってけろ・・・」
僕は胸につかえるものを感じながら、いう言葉などなんにもなかった。

ちょっとしてから、僕は
「んだが、わがった・・・」
といった。それ以上だと、何かがもたなかったからかもしれない。そして
「長ぐなっと電話代かがっから・・・」
といって電話を切った。受話器を戻しガチャンと受話器が下がると、10円玉が戻る軽い音がして、ガラス張りの小さなボックスの中が蛍光灯の緑色の光でにじんでしまった。
それもいいだろう、と思った。
別に車が欲しかったわけではない。母の言葉が哀しかったのだ。母の心が哀しかったのだ。
自分自身の覚悟などはどこへいったのか。杜子春が痩せ馬の姿になった母がむち打たれるのをみて、思わず「おっかさん」と叫んでしまう・・・、杜子春ほどの覚悟などは毛頭なかったとはいえ、それでも母の心に触れることにかわりはないのだろう。
釧路の真冬の寒い夜だった。
涙がそのまま凍りそうなほどに寒い夜だった。


僕がクルーとして乗り込む予定の飛行機は、一度だけだが僕を待つことになった。次の春にそれに乗り込んでネクタイ姿で乗務することになった。




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このことを書いてからH.Wife氏と話をした際、氏はコレクトコールを知らないということだった。簡単に説明すると、こちらから専用の番号にかけると、係が先方の了解を得て回線をつなぎ、料金は先方払いとなるシステム。公衆電話からなら、10円(100円でも)を入れて、それがそのまま戻ってくるということになる。今現在まだあるのかどうか知らない。

この頃のことを思い出しながらこうして書いてみると、ほんとにまあ、右に左にあきれるほどに揺れていた。僕は船にはからっきしだめだが、船酔いを思い出しそうなほどに、揺れていた。書いてみて我ながら少しうんざりしてしまった。教師になってからも揺れるのだが、この話はこれでいったん終わりにしよう。揺れすぎて僕自身少し具合が悪くなった。

どうしてこんなにも教師という仕事とカメラマンという仕事を選択することに悩んでいたのだろうかと思う。両方体験してみると、笑ってしまうほどいろんなことが全く違う。しかし、その違う「どちらかを選択」ということで揺れていたわけではなかったろうと思う。アドラー心理学的に考えれば、そうして「揺れていること自体」に目的があったともいえるわけで、そこに潜んでいた僕の目的はなんだったんだろうか。なんのために、大学の4年間もずっと揺れ続けていたのだろうか。青春のある時期を鬱々とした生活と引き換えてまで、いったい僕は何を手に入れたかったのだろうか。
一回一回のその揺れが何か大切なメッセージをもっていたし、何か特別なチャンスだったのだろうとは思うが、その意味はわからない。僕は不器用だから、あの時代にあんなふうに時間をかけて揺れなければ、自分自身の何か大切なものに出会うことなく過ごすことになったかも知れないとも思う。


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