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なまはんか心理学(2)エリス先生への手紙 [カウンセリング・心理のこと]

で、その論理療法、認知情動行動療法は、もとはA・エリスという先生が考え出したということらしいんですね。
話がそれるようですが、僕は怒りっぽいところがあって、自分自身の中の「怒りの感情」とどうつきあうかというのは、なかなか大きなテーマでした。(今でもそうではあるのですが今は「地」になっていることが多いようです)そんなときに、S先生に教えられてA・エリスの著書『怒りをコントロールできる人、できない人』という本を読んだんですが、それは僕にはしっくりくるものがあって、いい一冊との出合いとなりました。怒りは人間関係を壊し、一度の人生を破壊する強烈な力を持っていると思います。自分の中のその力とどのようにつきあうかというのは、少なからぬ人にとって難しい問題のようです。なかなかお勧めなのですが、だからといって人に勧めると「あなたは怒りっぽいから、これを読んでみたら」ということになりかねないので、やたらに勧めるわけにもゆきませんが。

はなしをもどします、
僕が尊敬しているおひとりであるS先生の集中講義に参加させてもらったときの話しです。ちなみにS先生は非常に優秀な方でしかも大変な努力家。出会えて本当によかったなあと思う先生のお一人です。そのS先生が言うには「A・エリスは『人は幸せになるために生まれてきた』と言っている」というのです。(言葉尻は間違っているかも知れません。)それが認知情動行動療法の基本的にある概念だということです。幸せのかたちは一人ひとり違うのでしょうが「幸せじゃあないけど、まあ、このままでいいや」といったら、わざわざ頭の中で考えてそれからわざわざ行動を変えるという必要はない、ということになってこの療法自体、存在意味をなさなくなるということなのでしょうか。
35歳頃だったでしょうか、僕自身も「人は幸せを味わうために生きているんだ」と思っていたことがありました。その頃は自信をもってそう思っていました。ですが、今はそうは思えなくなりました。
これだけそれぞれの人生があって、時には、一生逃れることのできないどうしようもない悲しみや不幸な出来事が訪れることもある。そう思いますがどうでしょうか。そうしたときに「幸せ」って何なのでしょうか。
認知情動行動療法は、非常に優れた心理療法のひとつだと思います。ただカウンセラー・療法家もいろいろいて、こころシステムのどういうところにフォーカスしてクライアントに向き合うかというのはそれぞれ大きく違う点になるのではないでしょうか。
S先生の集中講義では、レポートの必要はなかったのですが、自分自身のまとめとしてこんなことを書きました。少し手を入れて載せますが主旨は同じです。(講義の中でアウシュビッツの収容所を体験した心理学者ヴィクトール・フランクルのことも出てきたのでそれについても少し書きましたが、その部分は割愛)

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「エリス先生への手紙」

エリス先生、たとえばですがこんな状況を考えてみてはどうでしょうか。
僕の所に赤ちゃんが生まれて、その赤ちゃんが体が悪くて、あと1時間の命。生まれてわずか1時間の命。たとえば、こんな状況を想像してみたいと思うのです。
僕は、この赤ちゃんを前にして、「あなたは幸せになるために生きているのだよ」というのだろうか。いえるのだろうか。僕はそうは言わないと思うのです。おろおろと泣きそして強く抱きながら、百万回の「ごめんね」と百万回の「ありがとう」と繰り返すような、そんなふうに思うのです。僕たちの所に生まれてきてくれてありがとう、そして、こんな体に生んでしまってごめんね、そんな気がします。
もし隣にエリス先生がいらして先生が
「この子は幸せになるために生きているのだよ」
とおっしゃたら、僕は泣きながら先生に何というのでしょうか。
「先生に何がわかるというのですか!」
とでもいうのでしょうか。
それともただ沈黙するのでしょうか。
エリス先生に同じようにこのようなことが起こったとしたらどうでしょうか。先生は
「それでもこの子は幸せになるために生まれてきた」
とおっしゃるのでしょうか。
繰り返しますが、私にはとうてい言えないと思います。生まれてきてくれたこの子を、愛おしく抱き、温もりを感じ、そうして1時間という人生をともに過ごすだろうと思うのです。僕たち親子にとってどういう意味があるのか、なかんずく赤ちゃんにとってどういう意味があるのか僕にはわかりませんが。
トイレに産み落とされてそのまま死んでしまった赤ちゃんのニュースを聞いたりもします。幸せになるために生まれてきた、といったらあまりにも「幸せ」は空虚ではないでしょうか。
たとえばということで1時間の命などを考えてみましたが、それが2時間だったら本質は変わるのでしょうか。1日だったら、1ヶ月だったら、1年だったら・・・。
エリス先生、僕には幸せがまだまだわからないようです。

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僕が想像するには、エリス先生はそれなりにいいところの出身で、いい教育を受けて、勉強したいと思ったことを勉強して育ってきたのではないかと思うのです。人ですからいろいろとあったとは思いますが、おおむね「めぐまれた」人生だったことと思います。
ですが、世の中そんな人ばかりじゃあないなあと、つくづくと思うのです。言ってしまえば、生きたいと思ってもいきられない人もたくさんいる。不幸を絵に描いたような人生もたくさんある。
先日ドイツに行く機会がありましたが、そこと今これを書いている中米のN国では、QOLがとんでもなく違いすぎる。オーストリア、ドイツ、アメリカ、イギリスなど、成熟した(といってよければ)国で心理学・カウンセリングが発展した訳ですが、そうした国の目線からこころシステムを見てゆくのには、抵抗がある感じがしてしまうのです。胸の中心、肋骨の下、みぞおちの少し上あたりになにか引っかかるものを感じてしまうのです。

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