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なまはんか心理学(3)また飲もうよ、いーぽん [カウンセリング・心理のこと]

母が亡くなった秋の年明けでしたから、もう2年ほど前になるでしょうか、「実存主義的カウンセリング」(だったと思う)というタイトルの研修会に参加しました。「実存主義」とはということになりますが、いまだにこんな基本的な意味さえも実は僕にはよくはわからないのです。(こういうところが生半可もいいところ)
その研修会ではお手伝い係もしていたので、先生とも直接お話しする機会がありました。年明け早々ということで、たまたま母の喪中はがき※を持っていたのですが、どういう話しの流れだったか、先生にそれを見せたら、その先生がおっしゃるには
「これがまさに実存ですよ」
と。そういわれても私の頭の中は?????でいっぱいなわけです。

後日また先生とご一緒に何人かで晩ご飯を食べる機会があって、その時に聞いたんですね
「実存ってどういうことですか?」と
実存ということを自分なりに言うと、と前置きして
「交換不可能な存在としていること」とおっしゃっていたように記憶しています。
僕なりに考えると、たとえば市役所の住民係の窓口の担当は交換可能ですよね。いずれ定年退職したら担当が変わるわけで、交換不可能だったら大変なことになってしまう。小澤征爾の指揮は交換可能かというと、これは不可能でしょうね。OZAWAはOZAWAなわけです。

錦糸町の居酒屋で友達のいーぽんと飲んだときのことです。混み始めて忙しい時間、通されたのは向かい合わせの二人用の席。そして通路を挟んだ向かいにも同じような席。向かいには話の内容から競馬帰りのお二人。
彼らは頼んだあれはまだかとか、酒を早く持ってこいとか、取り皿がないとか、すこし乱暴な命令口調で言うわけです。働いているのはアルバイトだろう20代の女性。仕事なのでやることはやるのですが、見ているとどうも向こうのお客さんには愛想が悪いというか、事務的にというか、つまらなそうでそっけない。僕らにはいい感じで対応してくれる。笑顔だってある。何か違う。僕らがいい男たちだから、では決してない。(そんなに自信をもって否定しなくてもいいが)どうも、僕らはつまみやお酒を持ってきてくれるたびに嬉しそうに「ありがとう」を連発していたからのようなのです。持ってきてくれたので「ありがとう」をいう。そうすると彼女としても悪い気はしないので、自然に笑顔もでる。笑顔で給仕されれば僕らも悪い気はしない。そんなことが何かいい方向に関係を作ったようなのです。注文したのは焼き鳥とかそんなものだったけれども、何かいい感じで料理もこころなしか美味しくなっていった気がしました。
向かいに対してとこちらに対してでは、彼女の働く気持ちの何かが違う。向かいの二人に対してと僕らに対してでは、彼女の細胞の一つ一つにとって、大げさに言えばが生きている意味が違っているように感じられるのです。
市役所の住民係の窓口の担当も、その仕事をする人という意味では交換可能だけれども、その人自身は交換不可能なわけだし、そこでの在り方によってはそこでも交換不可能な存在になるのではと思います。居酒屋のアルバイトの彼女は、僕らには交換不可能な存在だった。

フランクル※は、人生の意味ということを深く考えてきたようです。
彼はロゴセラピー(ロゴというのはギリシャ語で「意味」という意味だそうです)の創始者で、Wikipedia※によると「ロゴセラピーとは、人は実存的に自らの生の意味を追い求めており、その人生の意味が充たされないということが、メンタルな障害や心の病に関係してくる、という見解を基にしている。」のだそうです。僕にはよくわかりませんが。もちろん彼は人生には意味があるということをいっています。

「交換不可能な存在」ということばを、自分なりに咀嚼した言葉で言うと「かけがえのない存在」という表現がしっくりくるような気がします。
ちょっとイメージしてみて欲しいのですが、あなたがそこに立っていて、それをぐうっと遠くから見ると、あなたはそこに小さくぽつんと立っていて、それをまたぐうっと引いてみると、あなたは地球のそこだろうところに見えなくなっているけどいて、それをまたぐうっと引いてみると、天の川銀河の中に全く見えないけれども確かに存在している。それはあなたの命で、かけがえのないもの。宇宙の彼方からこうしてみると、全く見えない存在ではかないけれども、確かにあなたはかけがえのないものとして存在している。
宇宙は広いので、ひょっとしたら宇宙のどこか遠いところに、あなたと全く同じ遺伝子を持ったヒトが絶対に存在しないとは断言できないけれども、それでもそれはあなたではなくてまったく違う存在。あなたはあなた。あなたはあなた。

あなたは宇宙が遺(のこ)したかけがえのない存在だと思う。

こんな表現が、僕にはぴったりくるように感じられます。
あなたの存在あるいは人生に意味があるかないかはさておいて、僕自身の存在あるいは人生に意味があるのかというと、僕は知らない。
僕のある尊敬する方が全く冗談というわけでもなく
「人生なんて、まあ、暇つぶしみたいなもんだね」
と言ったことがありました。
全くその通りと思うわけでもないのですが、そういう考え方もそれはそれでありだな、と思うのです。
自分の存在がかけがえがないと思えるとき、なぜか命が愛おしい。それがどうしてなのかは僕にはわからない。
一緒に暇つぶしをするその命もどうしてかはわからないけど、またたまらなく愛おしい。
また一緒に飲もうよ、いーぽん。







※「母の喪中はがき」というタイトルで先に書いていますので、よろしければ参照してください。
https://blog.so-net.ne.jp/MyPage/blog/article/edit/input?id=36890644

※フランクルの本を読んで「人生には意味がある」ということが、僕にはまだすっきりとは飲み込めません。彼の本からは、むしろ「自分らしく生きて欲しい」「充実した人生を生きて欲しい」そんな人の幸せを願う激しい思い、もっと言ってしまえば愛が感じられるのです。そういう意味で大好きで尊敬する先人の一人です。教員をしていたときに、授業の中でフランクルがアウシュヴィッツ収容所での体験を書いた『夜と霧』を紹介したことがありました。高校1年生のかれらが、その時に限っては真剣に話を聞いていたのを印象深く覚えています。

※先日このWikipediaで諸富祥彦先生の項を見ていたら、大のプロレス好きでリングネームはゾンビ・ザ・グレーテストで、ということまで書いてあったが・・・。誰が書いているのか知らないが、不思議な辞書だ。

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