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焦点を合わせること、またその周辺のこと [カメラマンになる周辺など]

一連の「人間遺産」の仕事で撮ったような、人の顔のアップの写真のピントについて少し書きたいと思う。
人の顔というのはかなり立体的なもので、あの撮影の現場では明るさの条件が悪いことが多く、そのようなときは絞りを開放にしてそれに合わせてシャッタースピードを決めるという撮り方をしたから、ピントが合う奥行きはそれほどないことが多かった。パソコンの画面で見ているにはそれはわからないが、大きく伸ばしたオリジナルプリントでは、明らかに被写界深度が浅い写真が多いことがわかる。※1
人の顔を撮る時は、ごく特殊な場合を除いて目にピントを合わせるのが基本だ。顔とはいっても目にピントが合っていないと「ピントが合っていない」と感じる。心理学的にもおもしろい考察になると思うが、ここではそれはさておく。
レンズに対して顔が正面を向いていれば、基本的には両目に対して距離が同じなので両目にピントが合う。斜めから見れば距離が違ってくるので、どちらかの目にピントが合って、どちらかにピントが合わないということがおこる。その場合には、より近い方の目にピントを合わせる。その方が一般的には自然に見えるように感じる。被写界深度が深い場合ならともかく、浅い場合は特に不自然に見えやすい。
いずれにしても目にピントを合わせるのだが、ここでもうひとつ問題が起こる。
目は立体であり水晶体であるので、目のどこにどのように合わせたらいいのか。撮影しながら試行錯誤を繰り返した。
さて、それでどこに合わせたらいいかという僕なりの結論では、水晶体と下まぶた(というのだろうか、日本語を知らない)の境目に合わせるのがいい。「目にピントが合っている」と見える。ひょっとしたら一種の錯視かもしれないが、合っていると言っていいと僕は思う。

オートフォーカスになったときに、ピントが合っているという画面表示が楕円だったり四角だったりと「面」でファインダーに表示される。※2僕にとってこれはどういうことかというと、細かいことになるが、ピントがまつげの先に合っているのか、それとも下まぶたに合っているのかがわからないということ。それは非常に大きな違いで、つまり、ピントが合っているか合っていないかわからないということになる。
デジタルの一眼レフカメラでは、レンズにマニュアルフォーカス機能があるので、マニュアルで合わせればいいだろうということになるが、ところが実際にはできない。マニュアルでフォーカスを合わせる人はほとんどいないということを前提として、メーカーはピントグラスをアニュアルでしっかりと合わせられるようには作っていないからだ。ピントグラスにヤマといわれるぎざぎざがあって、そこでピントがわかるようになっているのだが、デジタルカメラではそのぎざぎざがほとんどない。使いもしないところに費用を使うのは無駄だとメーカーが考えるのは当然だし、買い換えるものとしての家電製品となってしまった今となっては、そのような道をたどるのは推して知るべしだろうが。誤解を恐れずにいえば、今のファインダーはおおよその目安でしかない。
ピントを合わせるということは、何を見るかということであるし、何を撮るかということである。それは当然、何を意識しているかということにも及ぶ。※3

焦点のことからちょっとそれるが、愛用していたカメラはニコンのF3P※4にマットのピントグラス、それにモータードライブをつけていた。「人間遺産」の撮影ではコダックのPKRというリバーサルフィルムを使っていた。コダック自体倒産してしまったし、それよりもPKRというフィルムは10年くらい前に製造中止になっている。このPKRも含めコダクロームというのは「外式」といわれる現像方式のフィルムだが、この作りのフィルムはコダック独自のもので粒子が非常に細かい。PKRは実効感度がISO50と低くラチチュードも狭く非常に扱いにくい。しかし、何ともいえないナチュラルな感じと粒子の細かさが、大地に根ざして生きている人たちを撮るのにはとてもしっくりきた。

僕は何かを伝えるために写真を撮る仕事をしたと思うが、じゃあ200年前に生まれていたらどうだったのだろかとも思う。銀塩の写真装置はわずか180年位前にフランス人のナダールが作った。(・・・間違っているかも)画家や音楽家であれば1000年前であっても表現できるが、写真を撮るということはそうはいかない。科学技術の産物である写真装置がないと何もできない。お手上げだ。

焦点を合わせるということから、愛用したカメラのことフィルムのことなどに及んで、訳がわからなくなった。訳がわからなくなったついでに書けば、ピントを合わせられる目を授けてもらい、意図通りにしっかりとピントを合わせられるカメラに出合い、それを使うことのできる体を授けてもらい、そして、それらが同じタイミングで与えられた。銀塩の時代は短かったが、その時代に巡り合わせてもらった。なによりもたくさんの編集者に写真を撮る仕事を与えていただいた。写真を撮る仕事人として、いろいろなことの符号が合っていたというのは本当に幸運だったと思う。
いずれにしても、振りかえれば感謝以外になにも言う言葉ことはない。





※1 ニコンの105mmマクロレンズをよく使った。写真展「イエメンの顔貌」を開催したとき、90センチ×60センチに伸ばした写真を見て、ある方に「これは4×5(シノゴ)で撮ったのですか?」と聞かれたことがあった。
 
※2 こうしたオートフォーカスでは、フレーミングにも大きな不都合をきたす。

※3 意識は大げさに言えば人生そのものになる。実際にどのようなことが起こっているかではなく、それをどのように受け止め感じるかで変わるのだから。しかし、自分は何に焦点を当て何を意識しているのか、ということにさえ気づかないうちに時間が過ぎてゆく傾向が強くなりつつあるように感じられる。
大学生の頃に読んだ写真論争で「ネガのないポラロイドは写真なのか」というのがあった。今となっては笑い話にもならないような話だが、写真を撮る人間が写真をどのように意識・認識しているかという意味では古くはないし、デジタル化し加工の容易になった今も潜在しているテーマであると思う。

※4 一眼レフの高級機種ではピントグラス(ピントを合わせるための磨りガラス)を交換できるものがある。さまざまな種類があって目的によって使い分けたりすることがある。マットというのはその一番シンプルなもの。またF3はファインダー視野率100パーセントというのも重要な点だった。ちなみに、ニコンF3Pの、Pはプロフェッショナル仕様のPかプレス仕様のPかいまだに知らない。僕のF3P、2台とも海外での仕事も含め故障なくがんばってくれた。

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