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カニステルが実をつけた [日々の生活のこと]

庭には二羽ニワトリがいて・・・。
もとい
庭にはカニステルの木が1本あって、
大家さんが植えたものかどうかもわからないが、
ここに来たときにはすでにあった。
住み始めてからいままで実をつけたのを見たことがなかった。
それが、先日実がなっているのを見つけた。
確認できたのは2こ。
食すにはまだまだ時間がかかる。
熟してくると黄色く色づいてくる。
味や食感は、ざくっというとカボチャに似ている。
(他のものにたとえるのはいかがなものかと思うが、わかりやすい)
個人的にはおいしいと思うが、
どうしてなのか飽きがくるのが早い。


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なまはんか心理学(14)マインドフルネスについての今のところの理解 [カウンセリング・心理のこと]

だいたい隔週でマインドフルネス瞑想会に参加している。
瞑想というのは、目的によっていろいろと取り組み方が変わるらしい。日本的には「無我の境地」や「悟りを得る」などというような言葉と結びつきやすいように思うが、リラクゼーションを目的としたものもあるであろう。
マインドフルネスというのはパーリ語の「サティ」の英訳で、もともとは「心にとどめておく、憶えておく、思い出す」という意味。マインドフルネス瞑想は、認知療法とか認知行動療法に分類されているのではないかと思うが、それは、「気づく」それから「気づいたものを一旦横に置いておく」という作業を繰り返すからである。
私が参加しているところでは、結跏趺坐(けっかふざ)、半跏趺坐(はんかふざ)、あるいは楽座を組みながら呼吸に意識を持ってゆく。そうしながらも、身体内外のことに意識がゆき(つまり、呼吸に意識が向いていない状態)、それに気づいたらまた呼吸に意識をもどす。ということを延々とやっている(正確には、手を動かしたり歩いたりする方法もやっているが割愛)。呼吸以外のものに意識がいったことに気づいては横に置く(あるいは、手放すといってもいい)。呼吸瞑想であるので、また呼吸に意識をもどして、となるわけだ。

雨が降り始めた音に気づいている(その気づきは横に置いといて、呼吸に意識をもどして)
脚がしびれてきたことに気づいている(その気づきは横に置いといて、呼吸に意識をもどして)
・・・
※腹が鳴ったことに気づいている(その気づきは横に置いといて、呼吸に意識をもどして)
そういえば昨日食べたラーメンはちょっと変わった味だったけどうまかったことを思い出している、ことに気づいている(その気づきは横に置いといて、呼吸に意識をもどして)
そのラーメンのチャーシューが、ぶ厚かったことを思い出した、ことに気づいている(その気づきは横に置いといて、呼吸に意識をもどして)
それにしても、あの時向かいに座っていたおやじのラーメンをすする音は下品だったということを思い出している、ことに気づいている(その気づきは横に置いといて、呼吸に意識をもどして)
こんどいつ食べに行こうかな?そうだ、あいつラーメン好きだからあいつ誘おうかなと考えている、ことに気づいている(その気づきは横に置いといて、呼吸に意識をもどして)※

と、延々と頭の中に雑念・妄想・空想といった類いのものが広がる。今書いた※から※までをここでは「昨日のラーメンスキーマ」と仮に名前をつけよう。
この昨日のラーメンスキーマは、腹が鳴ったことに端を発し、「自動的に思い出された」ことばかりだ。全く別な人の昨日のラーメンスキーマは、ひょっとしたら、腹が鳴ったから、ラオスに旅行に行こう、ということになったかもしれない。

スキーマというのは、(よくわかんないけど)ものやことや概念や感情やそうした様々なものやことをつないでいる電線だったり繋がれているものだったり、その集合だったりかなと思うのだが、その電線の繋がり具合は、ほぼ共通したものから(たとえば車のスキーマなどは似ているだろうと思う)、個々人で全く違うものまである。
昨日のラーメンスキーマに関しては、その果てに地底の怪獣と決闘しようが火星に行こうがまあどうでもいいのだが、たとえば、

会社の上司が口やかましい
   ↓
死にたい気分になる

となる場合がある。

会社の上司が口やかましい
   ↓
言わせておけばいい

となる人もいる。電線の繋がり方が違うわけですね。
じゃあ、「死にたいとなるのは辛すぎるから、配線変えたい」というときに、
この配線はだいぶ昔からの配線で、気がついたときにはそういう配線になっていた、
ということが多い。
ほとんどの人が、「自動車→タイヤが4つ」というように配線されているのを「タイヤが5つ」と変えるのは難しいのに似ています。

では、できるところからということで、配線を変えるのは難しいけど、電気を止める練習をしましょうか。
スイッチもさび付いていて、なかなか電気も切れないけど、「はい、切ります」の練習です。つまり、この作業は
「その気づきは横に置いといて」ということになります。
時間と根気のいる作業です。しかし、少なからぬ人が経験していると思いますが、錆びたものも少しずつ動かすと動いたりするものですね。そんなことに似ていると思います。
一瞬電気が切れたときに「電気を切っても問題ないんだ」ということに気づき、さらには、「違うところに電気を流しても問題ないんだ」ということに気づいてゆくわけです。

実際はなかなかそううまくはゆかなくて、すとうの場合ですが、
頭の中には次から次にさまざまなことがぼこぼこと湧く。昔の思い出(思い出は昔のことに決まっているが)、今抱えている仕事のこと、思い出すと頭にきて怒りが止まらないようなこと。寒いとか暑いとか。昨日会った人のこと。特に仕事の上で重要なことが浮かんだりすると、「それを横に置いといて」とすることにはかなり抵抗があるようだ。
とにかくいろんなことが頭の中で「かつ消えかつ結びたるうたかた」のように湧き起こる。
他の人よりも「うたかた」が多いとか少ないとかは、全くわからないが、収拾がつかないほど次から次に沸きあがる。頭の中が爆発しそうになります。本当です。
そうした一つひとつのうたかたというか、気づいたことを「今はそれを横に置いておき」ということの繰り返しは、たとえば、武道館のタマネギの皮むきに似ているかもしれない、と思っている、ことに気づいている。とかとかの繰り返し・・・

たとえばこの作業を10年続けた時をイメージしてもらいたい。「無我の境地」とはいかないだろうが、多少なりとも生きるのに楽なように働く自動配電システムが作動するようになると想像できないだろうか。ひょっとしたら、新しい友達のさとるくんがたま〜に遊びに来るかもしれないし。















書いていることに間違いもあろうかと思う。先達にご教示をいただけたらありがたい。

コミュニケーションということ、あるいは実存的孤独 [カウンセリング・心理のこと]

4月から6月までだいたい隔週で計6回の「カウンセリング技法に学ぶ コミュニケーション講座」というものをすることになった。それで、アサーショントレーニングの本とか、コミュニケーションに関わるものを少し読み直そうと思った。図書館から何冊も本を借りたのだが、その中に『孤独であるためのレッスン』(諸富祥彦著)も借りてきていた。
頭の中に「コミュニケーション」があって、手に取るものが「孤独のレッスン」というのは、いかがな回路になっているのかと自分の事ながら思ってしまう。
諸富先生は、ムスターカスの概念を引用して「実存的孤独」と「孤独に対する単なる不安にすぎないもの」とを重要な違いとして説明している。前者の方を「人間の本質に目覚めていることの証であり、生の動乱や悲劇、変転に直面して行く際育まれるものである。この世に生まれ、激しく生き、ひとりで死んでゆくことの本質にある孤独が、実存的孤独である」と説明している。(なんだか難しいね)言い方を変えて「実存的孤独とは、人がひとりで生まれひとりで死んでゆくこの悲劇にもかかわらず、激しく生きなくてはならないという人生の本質に目覚めながら生きてゆくこと」と言っている。(やっぱり難しいね)

小学生の頃、学校の帰りに友達と道草を食いながら帰ったものだった。交差点で誰が勝ったらどっち、誰が勝ったらどっちに行く、と決めてじゃんけんをして一番先に家に着いた人が勝ち、という遊びをしたことを懐かしく思い出す。誰も一度も家に着いたことはなく、誰からということもなく遅くなりすぎたのでやめようといって終わりになった。この遊びは、私のお気に入りだった。楽しかった。
それ以上に身体が覚えているのは、ひとりで帰る時間だった。ひとりでつまらないというのでもなく楽しいというのでもなく帰るあの時間は、世の中からほったらかしにされる最初の体験だったわけではないが、まとまった体験としては初めてのことだったと思う。
大人になって都合5年くらい、カメラを持って海外をほっつき歩いていた。ほっつき歩いた時間は、ほとんど糸の切れた凧のような状態だった。
小学生が大人というかそんなようなものになり、学校の帰り道がチベットやラオスやボリビアやサモアとかとかになっただけのことで、ほとんど何も変わりがない。
諸富先生のこの本の表現を借りれば「・・・ひたすら砂や粘土をいじくったり、長い時間ボーッと列車を観ていたり、といった体験の中で、子どもの想像力や創造性は育っていくのです。」(大人の私はひたすら写真を撮っていたが、何かが育つには遅すぎだったかもしれない・・・合掌)

ひとりでいることが怖いので、そうならないために話し続けるというのであれば、それは心の中に巣くう恐怖の火に薪をくべ続けるようなものなのだろう。
コミュニケーションをとるということは、人前でじょうずに話せるとか、会議で説得力のある話ができるとか、英語力が高まったとか、そういうことではないのだろう。たとえば、受容し合える関係を作ることと言えるような感じもするし、また、しっかりと孤独に生きてゆくためだという気もする。











このバナナは・・・ [日々の生活のこと]

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うちにはバナナが3株あって、どれも違う品種。そのうちのひとつは三尺バナナとわかっているが(このバナナは背丈が低いのでわかりやすい)、あとの2つは名前がわからない。そのわからないうちの一つがこれ。酸味が強くてどろっとした感じで、いわゆる島バナナかなとも思うが、正確にはわからない。(現在では交配が進んで、純粋な島バナナはほとんどないという専門家もいるようだ)
上の写真が木に生っている状態で、これが熟して下の写真に。品種がわからなくても味に変わりはないので困りはしないが、わかると収まりがいいので誰かわかったら教えていただけるとありがたい。

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おひょいの藤村俊二さん (合掌)                         [分類しにくい、って分類するのも変だけど]

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永井豪の「ハレンチ学園 ー実写版ー 」に原始人のイメージのかっこうのおばかな先生、ヒゲゴジラででてました(ハレンチ学園も親に隠れて見た番組でした。番組が短命だったのはハレンチだったからでしょうな)。進学するならやっぱりハレンチ学園が絶対にいい!!と思ったものでした。(冗談です。昔の小学生でしたから進学のことを考える年ではなかった。)
それから、「ゲバゲバ90分」にもレギュラーででてました。この番組でもおばかなこといっぱいをやってました。関係ないのですが、「ゲバゲバ90分のテーマソング」と「星条旗よ永遠なれ」のイントロ、よく似てますよ、宮川泰先生。
それから、10数年前にNHKのラジオコメディドラマで「みんな大好き」というのがあったが、この番組にも出ていた。その番組をざくっと説明すると、ある普通の一家とその友達たちのありふれた日常の喜怒哀楽を描いたもの。一家のお母さんは中村メイコ(メイコさんは孫の役もやっていた)、お父さんは小松政夫、で、藤村俊二は近所に住むお父さんの古いお友だちとい設定だったと思う。(皆さんゴーカですな)このドラマは、毎回これでもかと言うほどの予定調和。小さな事件は起こるが突拍子もないことが起きないし、予定調和そのものなのだが、そこに描かれる幸せ感にうまいこと泣かされるのだった。いいラジオドラマだった。
話がそれた。その番組でも藤村俊二はたまらなくいい味を出していた。何ともいえない存在だった。
ひとは、ひょいと向こう側に行ってしまう。

楽しかったです。ありがとうございました。   (合掌)








※ 写真は朝日新聞デジタルから借用


「オランダせんべい」のナゾ      [田舎のこと・母のこと]

ブログで書こうと思いながら手つかずになっていることに「ばっちゃのきびちょ」がある。ばっちゃはばっちゃ。きびちょは急須のこと。田舎の年寄りが急須でお茶を入れるとき独特の仕草をする。それが子ども心にも印象に残っていた。そんなことを書こうと思っていた。
それで、「きびちょ」というのは私の田舎独特なのだろうか、それともある程度の範囲で使われているかが気になって見てみたら、一番には仙台弁の中に出てきた。その次に「山形弁検定」の中に出てきた。検定のこの質問は問題なくわかった。

ついでにと思い開いた次の問題。
「次のうち、方言を商品名にしていないものはどれ?」に「オランダせんべい」も選択肢にあった。私がごく小さい頃から酒田のメーカーの商品でオランダせんべいというのがあるのだが、紙コップの経ほどの円形の薄い塩味のもの。ほとんど同じものがコンビニのプライベートブランドでもでているので、見ればああこれかとわかると思う。
子どもの私には、酒田なのにどうして「オランダ」なのかがナゾだった。縦長のセロファンの包装には風車とずきんをかぶってかごを抱えた女の子の絵が描いてあって・・・。
酒田は江戸時代に廻船の港として栄え、そこの豪商である本間家などは
「本間様にはおよびもせぬが、せめてなりたや殿様に」
などといわれたほどの豪商だった。そんな豪商でもさすがにオランダと交易していたとは思えなかった。
きょうわかった。
オランダはカタカナだからわからなかっただけで、「おらんだ」つまり、
「わたし(たち)の」という意味の方言だった。
用法としては「たなのまんじゅうはおらんだがらくうなよ」などと使う。
50年来のなぞがとけた。
だからどうしたということでもないが。
ほだがらなんじょしたわげでもねえげんとな。


マリーが教えてくれたこと、または、哀れについて                           [いろいろ思うこと]

マリー・ローランサンのこの詩に出会ったのは、20代のことだったと思う。
題も忘れていたが、あらためて見てみると「鎮静剤」だった。
「何々な女より もっと哀れなのは」が何度も繰り返され、「鎮静剤」?

この詩を思い出したのは、アメリカのTのことを考えていたからだ。
人を指さしで非難し、おまえは黙れ、おれの言うことをきけという。
おれの言うことをきかないなら、おまえの首はきってやる。
トランプゲームなら勝っても負けても笑って一緒に遊んで楽しかったと言えるだろうが、
生身の人間はトランプゲームをしているわけではない。
ひとは様々な思いを抱えながら、それぞれの人生を生きている。

私はある種の人を見ていてときどきこんなことを言いたくなることがる。
「この土地がおまえのものだというなら、死んだときに持ってゆけ」と。
持ってはゆけない。
理由は簡単で自分のものではなく借りているものだからだ。
自分の肉体も含め、借りているということを意識し
「借りているものは返さなければならないから、大事に使わなければ」
と思うと何かが変わる可能性があるのではないだろうか。

Tのことを言うのにどのような言葉が自分にとってしっくりくるのかわからない。
わからないながら今の感じをマリーに助けてもらいながら言葉にしておこうと思う。


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  鎮静剤  
         マリー・ローランサン  (堀口大學訳)


 退屈な女より もっと哀れなのは
    悲しい女です。
 悲しい女より もっと哀れなのは
    不幸な女です。
 不幸な女より もっと哀れなのは
    病気の女です。
 病気の女より もっと哀れなのは
    捨てられた女です。
 捨てられた女より もっと哀れなのは
    よるべない女です。
 よるべない女より もっと哀れなのは
    追われた女です。
 追われた女より もっと哀れなのは
    死んだ女です。
 死んだ女より もっと哀れなのは
    忘れられた女です。

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 忘れられた女より もっと哀れなのは
    人の心に触れたことのない男です。


今の私はそんなふうに思う。
私はT本人に会ったことはない。大きな誤解があったら申し訳ないと思う。 
「Win Winの関係」などというのも時に白々しい感じがしないでもない。
でもないが、「自分ひとりだけ」が「幸せ」ということもあり得ない。






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