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「オランダせんべい」のナゾ      [田舎のこと・母のこと]

ブログで書こうと思いながら手つかずになっていることに「ばっちゃのきびちょ」がある。ばっちゃはばっちゃ。きびちょは急須のこと。田舎の年寄りが急須でお茶を入れるとき独特の仕草をする。それが子ども心にも印象に残っていた。そんなことを書こうと思っていた。
それで、「きびちょ」というのは私の田舎独特なのだろうか、それともある程度の範囲で使われているかが気になって見てみたら、一番には仙台弁の中に出てきた。その次に「山形弁検定」の中に出てきた。検定のこの質問は問題なくわかった。

ついでにと思い開いた次の問題。
「次のうち、方言を商品名にしていないものはどれ?」に「オランダせんべい」も選択肢にあった。私がごく小さい頃から酒田のメーカーの商品でオランダせんべいというのがあるのだが、紙コップの経ほどの円形の薄い塩味のもの。ほとんど同じものがコンビニのプライベートブランドでもでているので、見ればああこれかとわかると思う。
子どもの私には、酒田なのにどうして「オランダ」なのかがナゾだった。縦長のセロファンの包装には風車とずきんをかぶってかごを抱えた女の子の絵が描いてあって・・・。
酒田は江戸時代に廻船の港として栄え、そこの豪商である本間家などは
「本間様にはおよびもせぬが、せめてなりたや殿様に」
などといわれたほどの豪商だった。そんな豪商でもさすがにオランダと交易していたとは思えなかった。
きょうわかった。
オランダはカタカナだからわからなかっただけで、「おらんだ」つまり、
「わたし(たち)の」という意味の方言だった。
用法としては「たなのまんじゅうはおらんだがらくうなよ」などと使う。
50年来のなぞがとけた。
だからどうしたということでもないが。
ほだがらなんじょしたわげでもねえげんとな。


母の贈り物 [田舎のこと・母のこと]

大学1年の冬、僕は田舎に帰らなかった。釧路の師走、寒さがつのりきって毎日が極寒だった。
四畳半、トイレ台所共同の安アパートに暮らし※、段ボールを机代わりにして、そこで李白の長い詩を読むのにこっていた。
年の暮れが近いある日、母から小さな小包が届いた。何が入っていたのかほとんど覚えていないが、餅とオーブントースターと、そして手紙が入っていたのだけは覚えている。
餅はうちで作った長方形の切り餅だった。今年の正月は帰らないと母に伝えていたのだろう、それで餅を送ってくれたのだろうと思う。母は餅をあぶるものもいるだろうと、わざわざ新しくオーブントースターも買って入れてくれていた。
オーブントースターを取り出して開けてみると、その中にも餅を何個かずつ新聞紙に包んで輪ゴムでとめたものがいくつか。こんなところにも入れてくれたのかとありがたいなと思った。
しかし、オーブントースターがちょっとおかしい感じがした。何かカサカサと音がする。
よく見てみると電熱管に餅がぶつかって、上の方についている電熱管がすっかり粉々になって下に散らばっていた。

手紙は、新聞のチラシを切ってその裏に書かれていたと思う。手紙というよりは、むしろメモのような感じで。ボールペンで書かれたそれの書き出しはこうだった。
「元気でせうか・・・」
その時まで母がそんな書き方をするような時代を生きていたのを知らなかった。
そして僕のことを気遣うことばかりが書いてあった。風邪はひいてないか、楽しくやっているのか、そんな些細な一つひとつだった。

四畳半のほとんど何もない薄ら寒いアパート。緑色の蛍光灯。小さな紙切れに書かれた決してうまいとはいえない母の文字。何度も何度も読み返した。
壊れてしまったオーブントースター。母の気持ち。

それ以降母から手紙をもらった覚えはないから、きっと母からもらった唯一の手紙だった。大学生のときでさえ何度か引っ越したし、そのあともとにかくひとつ所に落ち着かない引っ越しの多い人生を過ごしてきたから、母からもらったあの手紙は、どこにいったか全くわからない。
あの手紙をもう一度読み返したいと思うが、かなわないだろう。
だけども、この体そのものが母からの手紙であり贈り物。








※話しとは全く関係ないが、このアパートでは、隣に松山千春の弟が住んでいた。同じ大学の一年先輩だったように思う。
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真夜中に思い出せば・・・ [田舎のこと・母のこと]

真夜中にふと小さく目を覚ましたら、消さないままに寝てしまったラジオから懐かしい歌謡曲が流れていた。天知真理がひとりじゃないって素敵なことねと歌い、沢田研二が切ない恋の歌を歌い、三好英二が雨に濡れながらたたずみ、ちあきなおみがいつものように・・・と。昭和47年の特集といっていたようだった。
中学生の頃の歌たちかなと思いながら、帰ってゆきそうな意識の中で、どうしてだか小学生の頃の放課後を思い出していた。

授業が終わると、誰が言い出すということもなく、グランドに集まって野球をすることになる。一度うちに帰ってランドセルを放り、その代わりにグローブとバットを持って学校のグランドにとって返す。ずぼんの膝にはいつもはりぱん(つぎはぎ)があった。
みんなが集まるとまずチ−ム分けだが、よく「とりっこ」※ということをした。Yくんがいつもリーダーシップをとって、弱い子が寂しい思いをしたり仲間はずれにならないように気を配っていた。ああ優しいいいやつだったなあと思う。
あのころはいつもそんなふうに放課後遊んでいた。三振ばっかりだったかもしれないけれど、バットにグローブを突っこんで肩にかついで夕暮れの空の下を帰るときは、何かを成し遂げて一日が終わるようでちょっと自慢な感じだった。
幸せだった。
僕自身は言ったことを覚えていないけれども、母が
「なおとしは『補欠はどごでもまもんねどなんねがら大変なんだぜ』なんて言って野球がらかえってきて・・・」と、訪れた母の友だちに話して笑っていた。母はそんなことを話しながら、元気に遊んでくる息子をめんこいなあと思っていたのだろう。
何十年も前のことを思い出して、あの頃のちっちゃい僕が愛おしいと真夜中に思った。そして、枕が少しぬれた。


 




※ 「とりっこ」というのは、その時その時で力の同じくらいの二人を取る人に選んで、その二人が代わる代わるに一人ずつチ−ムの仲間に選んでゆく。選ばれたらそのチームになる。そうして決まった仲間も一緒になって次はどうだから誰を取ろうということになる。子どもながらに同じくらいの力わけになると思っていた。とりっこはいつも協議制だった。

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Kさんのキウイ [田舎のこと・母のこと]

Kさんは母の古いお友だちだということしか知らない。Kさんの下の娘さんが僕と同級生だったから、そんなことからのつきあいだったのかもしれないし、ひょっとしたら女学生頃からのつきあいだったのかもしれない。
僕が小学5,6年頃からときおりKさんは家に遊びにいらっしゃたりしたのを覚えている。あがってお茶を飲んでゆくこともあったし、ちょっと通りかかっただけだからと玄関先で立ち話をしてそのまま帰ることもあった。母にしてもKさんにしても子どもたちが小学校の高学年になって、それなりに親の手を離れるようになり、少し自分の時間を持てるようになった頃だったのだろうと思う。
僕が高校生の頃に姉は結婚したのだったが、Kさんは結婚祝いに、オールドという黒く丸っぽいウイスキーの空き瓶をふたつ合わせたのをベースにした、三つ編みで目のくりくりとした南方系の少女の人形を作ってくれた。たまたまそのころKさんは誰かから作り方を教わって、Kさんのマイブームだったのではないかと思う。

母が亡くなって半年後、母の生家があったところから目と鼻の先にある市の会館の小さい部屋を借りて「須藤ヒサ子 小さな小さな遺作展」というのをした。水彩画を描くのが好きだった母が生前何かのおりに額に入れたものを10点ほどと、色紙に描いたものから数点選んで台紙に飾った。それだけのささやかな展示会だった。
そんなときにもKさんは同年配のお友だちを何人もつれていらしてくださった。小さな町のことだから、一緒にいらした方々もたぶん多少なりと共通の友人知人だったのだろうと思うが、僕にはよくはわからない。

Kさんにも母の葬式の連絡はゆかないでしまった。
Kさんがいらしてくださったのは葬儀の二日後、どぼどぼとぼた雪の降りしきる寒い午後だった。一緒に暮らしている上の娘さんが、股関節を骨折したというKさんを車で送ってきて、靴を脱ぐのまで細やかに手を貸していらした。
仏壇の前の母の遺影を見るなり
「あらぁ、優しい方だったのに・・・」
と、何か大切な物を壊してしまったときのような切ないため息のような言葉が漏れた。股関節をいたわりながらやっと座って手を合わせたその背中は、本当に寂しそうだった。

お通夜やら葬式やらが終わってからも、知らなくて遅くなりましたがとお線香を上げにきてくださる方々。そうした母の友だちやお世話になった方が仏壇の母の遺影に手を合わせてくださるのを見ながら、そして、何かしらご挨拶やら話しをしてゆくのを聞きながら、僕は脳裏に去来するなにか漠としたものを感じていた。母とその一人ひとりの関係でしかないから、その人のことを僕がどう思うということではなく、いろんなつき合いがあったのだなあと思っていたのだろうか。あるいは、僕のどこか深いところで母の人生に触れたいという思いがあったのかもしれない。

杖をついたKさんは、ますます降りしきる重たい雪をつと見上げ、それからシャーベット状になってしまった玄関先を、娘さんに付き添ってもらいながらゆっくりと歩いて車に乗り込んだ。僕はお礼を言って静かに助手席のドアを閉めた。白い乗用車はすぐに曲がって見えなくなったが、見送りながら、あんな体の状態でよく来てくださったなあと思うとありがたかった。そして、どうしても母とちゃんと最期のお別れをしたくて来てくださったのだなあと思い至ったときには、なにかちょっと遅すぎた気がした。
「優しい方だったのに・・・」と漏らしたKさんのその言葉を心の中で何度も響かせ、そして、手を合わせてくださっていた小さな後ろ姿を思い返した。そうしていると、母はこの人に優しくしてもらったのだという何か確かな感じがわきあがった。母の人生を豊かにしてくださったひとりなのだという確かなものが胸に広がり、熱いものがこみあげてきた。


つい先頃、Kさんと一緒に暮らしている上の娘さんが庭で採れたのだとキウイを贈ってくださった。平たい段ボール箱に、仲のいい小さな兄弟たちのようにきれいにちょこんちょこんと並んでいた。自家用に作っているのだけれども、今年は出来がよかったのでということだった。
昨年末、中米から帰るとすぐに遅めの母の三回忌の法要をあげてもらいに赤湯のお寺さんに行ったのだが、その折りにKさんのところにうかがった。まだ杖をつきながらKさんが玄関に出てきてくださった。僕は玄関先で小さなお土産を渡しご挨拶をしてすぐに失礼した。
そんなことがあったので気を遣って贈ってくださったのだろかと思う。

流しに立ったまま、キウイをしゃっとすすいで包丁で皮をむく。むいたキウイを左の手のひらにのせたまますうっと輪切りにすると、深いこけ色が美しかった。そして、放射状に並んだ種子が、光速を越えて飛んでゆく宇宙船から見る映像のように見えた。お母さんは遠い宇宙の果てにいったようにも思え、このキウイにいるようにも思えた。

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迷子になった話 [田舎のこと・母のこと]

小学2年生の夏休みだった。東京のおじさんのところに家族で遊びに行った。東京のおじさんの家は、当時は品川の中延にあったから、中延のおじさんと呼んだりもしていた。
その朝僕はいつもよりも早く目が覚めた。ひとりで町を散歩したい気分になった。それは散歩のつもりだったが、散歩ではすまず、ちょっとした旅になることになった。
僕は家にいた大人の誰かにちょっと散歩に行ってきますといって玄関を出た。玄関前の路地に出ると、まず振り向いてその家のようすを見て覚えて、右だか左だかにいった。小学2年生とは思えないしっかりした行動だったと我ながら思う。
外に出たときの空気には日曜の朝のゆったりしたような雰囲気があったから、その日は日曜日だったのだろうと思う。僕は角を曲がるたびごとにここを右とかと覚えていったから、そのままちゃんと中延のおじさんのところまで帰ることができるはずだった。僕はしばらくここをこっちに曲がって、ここはこっちに曲がって、と確かに覚えていた、つもりだった。
帰ろうと思ったときに不安がよぎったのか、不安がよぎったので帰ろうと思ったのか。帰ろうとしたときには全くわからなくなっていた。ひとつ手前角、今曲がったところまで戻っても、その風景はすでに見覚えがなく、ここがどこなのかわからない。当時の品川区中延は住宅街で、曲がっても曲がっても同じように区画されたブロックの中に、似たような住宅だけだったから、曲がるたびにますますわからなくなってしまったのだった。それでもぼくはまだ泣かなかったと思う。
歩いてゆくうちに、今思えばたぶん大きな国道に出たのだろう。そこを渡ってはいけないと子供ながらに思った。こんな大きな道は渡らなかったから。国道手前側沿いを歩いた。そして、ガラス窓越しに何人かの女性が仕事を始めようとしているのが見えた。印象としては個人経営の小さな縫製工場のような気がする。しかし、そういうところなら日曜日は休みのような気もするが、わからない。そこのドアをあけて、出てきてくれた緑の服を着た女性に泣きながら迷子になったことをいった。その方がとても親切にしてくれて、どうしたらいいものか彼女なりにいろいろと考えて、帰ることができるためのことを聞き出してくれたのだろうと思う。山形の実家の電話番号を覚えていたので、そこに電話をしてくれた。幸い一足先に帰っていた母が出たのだろう、そこから中延のおじさんのところに連絡が取れた。出してくれた椅子に座ってしばらく待つと、おばさんだったと思うが、手に菓子折をぶらさげて迎えに来てくれた。
中延のおじさんの家まで連れて帰ってもらうと、なんだかとても近かった。迎えに来るまで時間がかかったのは、菓子折を買いに行ったためだったのだろう。
中延のおじさんの家のまえで、ちゃんと覚えたはずだったのにと思い、改めて中延のおじさんの家のそのたたずまいを見ると、こんな家だったっかな、と思った。所詮はな垂れ小僧のいい加減さだった。

海外をひとり旅するようになって、旅の醍醐味は途方に暮れることだと僕は思う。夕焼けの赤い色も群青に落ち始めそれでも帰り道がわからない、あのときの感じ。真夜中に終点に着いたバスをおろされて、他の乗客はみんな帰るところがあるのに、僕だけはどこへ行ったらいいのかわからずに、あてもなく方向もわからずに真っ暗な町をうろうろとHOTELの看板を探し歩いた夜。途方に暮れているそのときにはまさか思えないが、振りかえると、何とも妙に味わい深い時間だった。旅をして人に出会い、土地のものを食べ、初めてのものを見て、どれもこれも素敵なことだと思うが、僕には途方に暮れたときのあの感じがたまらない。
当時はそんなことなどつゆとも思いもしなかったが、小学2年生から旅の醍醐味を味わっていた、ことになる。もしかしたら僕のどこか深いところでは、あのときの感じを味わいたいと思って旅をするのかも知れない。

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夢のなかに [田舎のこと・母のこと]

出不精だった母が夢に出た。
夢のなかの母は、若くてぷりんぷりんしていた。
そして、優しい優しい笑顔だったので、
僕には、おかあさんがどこか遠くへ行くのだとわかった。

おかあさん、どさいぐなやあ。
さびしいなあ。
どさもいがねでけろ。

心の中でそう思った。
それだけの夢だった。

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丹波湯 [田舎のこと・母のこと]

半年ほど前だろうか、A町に行ったとき元湯という共同浴場に入った。この元湯というのは新しく作られた建物で、この風呂ができてその代わり丹波湯と大湯という共同浴場がなくなった。
湯上がりにふと壁を見たら、なくなってしまった丹波湯と大湯の写真が額に入って申し訳に飾ってあった。ちなみに、家から大湯は近くなかったのでほとんどゆくことはなかったが、A町の温泉街付近に点在するいくつかの共同浴場の中でも、ダントツにひなびた風情が残っていて一番好きだった。それに大湯という名前とは裏腹にダントツに一番小さかった。昔はなかった駐車場ができたりしたものの、ちょこんとしたたたずまいは何十年も前からほとんど何も変わらずに時代に取り残されたようにしてあった。

ついでなので言わせてもらえば、新しくできた元湯というのは、土地の人が入るにしても、あるいは観光客が立ち寄る地方の温泉町の風呂としても、この風呂は作りがあまり良いとは言えない感じがする。それは、洗い場も風呂もどこか角張ったツンとした感じで、何度かはいったがいつもどこか落ち着かない感じがする。人と人がここで何かを話すとか話さないとかは別にしても、コミュニケーションをとりにくい作りになっている感じとでもいうか、あるいは、スムーズに気が流れない感じとでもいうのだろうか。設計した業者は共同浴場などには入りにこないのだろうし、この町のここにこれがあるということの意味をあまり理解しないのだろう。
僕は、今はこのA町の人間ではないけれども、この町のこのすぐ近くで生まれ育ち、電車で米沢の高校まで通学していた頃には、温泉を一風呂浴びてから7時少し過ぎの電車に乗ったりもしていたので、少し辛口かもしれないがこのくらいのことは言わせてもらってもいいかなと思う。
・・・温泉の話しだけにちょっと熱くなってしまった。


僕が生まれて間もない頃だと思うが、母はそのなくなってしまった丹波湯という公衆浴場をやっていた。
今はたぶん管理人としての契約になっていて、入湯者の管理と清掃をするだけだと思うのだが、その当時はそこを入札で丸ごと借り受け、その代わりそこでは石けんやタオルやカミソリなどを売ったりしてもよく、その売り上げは個人の収入にすることができたらしい。

母は入札などには行ったこともないし相場も全く解らなかったが、とにかく仕事をしなければならなかったから、ともあれその入札会場に行ったらしい。
母の話から想像するには、入札の係が何人かならんでいるなかで、その場で金額を書きこみ、順々に箱か何かに入れていったのではないだろうか。
母はほんとうに全く見当もつかなかったらしいが、ならんで順番を待ちながら、そこにいた何人かの入札係を見ていたらしい。ある入札係が頬杖をついていて、その頬杖をついた、その頬に当てた指を見て、金額がぴんときたのだそうだ。母が落札した。
母はそういう何かが利く人間だった。母のそうしたことがいつも家を助けていた。

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丹波湯 昭和32年2月撮影 とのこと

この建物自体は僕は記憶がない。この丹波湯の写真は、右下には昭和23年5月完成、昭和32年2月撮影、とある。僕が生まれる3年前の撮影ということになる。母がまだ実家の「油屋」で仕事をしている頃に僕はそこで生まれて、その後のある期間をこの建物で仕事をした。そして、まだ乳飲み子だった僕を育ててくれた。

実家の物置には、丹波湯で仕事をしていたときに商品として仕入れた、貝印のT字型使い捨てカミソリのカンカラが残っている。ある時には母の針と糸が入っていた気もするが、最後に見たときには、こまごまとしたものが乱雑に入っていて何が入っていたか思い出せない。唯一思い出せるのは、頭がニコちゃんマークの画鋲だけだ。誰かにもらって、かわいかったのでとっておいたのだろう。頭のところは相変わらず黄色い顔して口角を上げて笑っていた。

僕が物心ついたときの丹波湯は、少しだけ場所も移り、当時としてはモダンに生まれ変わっていた。そのころの入湯料は5円だった。10枚綴りの「湯札」を買っておき、それを一枚ずつちぎって風呂にゆくとき持って行った。
「ほらほら、湯札忘れんなよ」
と、よく母がいっていた言葉が聞こえそうだ。


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母の喪中はがき [田舎のこと・母のこと]

母は一昨年の10月になくなった。
年末というわけではなかったが、年末年始のことをあまり悠長にかまえてもいられない時期だった。そんな気ぜわしくなろうとしかけた頃だったが、こんなことも一度きりだしと思い、喪中はがきを自分なりに書いて送った。そうしたら、ちょっと変な言い方かも知れないが、ちょっと好評だったようで、壁に貼っているとか、涙がとまらなかったとか、こんなに思われてお母様は幸せでしたねとか、大切な人との時間を大事にしたいと思いますとか、とか、お葉書やメールをたくさん頂戴した。
今の時期にブログにアップするのもどうかとも思ったが、思いたったが吉日というか。喪中はがきで吉日というのもこれまた変だが・・・。

喪中はがきHP用(アウトライ.jpg
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白布高湯の赤とんぼ [田舎のこと・母のこと]

僕が幼い頃、ばっちゃ(母方の祖母)はよく湯治に行っていた。
僕の記憶では、白布高湯という山奥の温泉の何件かある大きな旅館の一つにいっていた。古い大きな木造の旅館だったと思う。少なくとも「しらぶたかゆ」というその響はよく覚えているので、そこであるのは間違いない。白布温泉は米沢から福島の磐梯山の方へ抜けてゆく途中、吾妻連峰の中腹にあって、今のように秘湯がブームでもなかったし、ただ不便なところにある湯治温泉宿というだけのことだった。
そこには宿が三軒あって、東屋と中屋と西屋。どこにとまっていたのかは知らない。
昔の宿の常で、建て増しに建て増しをしてゆくから、旅館の中は迷路になっていて、幼かった僕には、どこがどうなっているのか全くわからなかった。それだけに冒険ごっこができて楽しかったのかも知れないが。
当時の湯治というのは、宿代は純粋に宿代として安く、布団はいくら、朝ご飯はいくら、煮炊きをすれば薪はいくら、というふうに、それぞれ別料金になっていたのではないかと思う。自分の都合に合わせて、今回は短い滞在だからご飯は頼んでしまおうか、などというようにしていたのではないかと。

ばっちゃはトクホンをぺたぺたと二列に並べて背中に貼っていて、いつもトクホンの匂いがした。それから椿油を使っていたから、その匂いも混じっていたのだろうか。余談だが、どうしてだろうか、僕が小さい頃からばっちゃが死ぬときまで、ばっちゃはばっちゃで、変わらないままだった。こういうことは友達と話しをしてたまたまこんな話題になったときに、みんな口を揃えて同じように言う。ばっちゃは僕らが生まれた頃からばっちゃのままだ。なぞだ。
僕が覚えているのは、そのばっちゃは畳敷きの大広間にいて、そこにはばっちゃと同じようなばっちゃたちがたくさんいた。個室ではなくそこで寝ていたのかも知れない。その方がばっちゃどうしの親睦もはかれるし、安上がりでいいのかもしれない。そういえばある哲学者が言っていたが、湯治場というのは情報交換の場そのものだったと。そうなのだろう。
僕は長く宿にいた記憶はない。たぶん、ばっちゃが帰る前日に迎えに行って、ついでに一泊したとかその程度なのだろうと思う。母が一緒だったとは思うけれども、他には誰が一緒だったのだろうか。よく覚えていない。

年寄りが湯治に行っているのだから、外に散歩に行くということはなく、宿の中で温泉に入ってはあがり、あがっては入りを繰り返し、そして、しゃべって、食べて。風呂から上がると大きな部屋の窓際でゆっくりしていた。風がよく入った。トクホンの匂いはしなかった。宿の人が置いてくれたものだろう、新聞があった。初めて新聞というものを目にした、という記憶がある。もちろん内容などは全くだけれど、いちばんうしろのページにテレビの番組欄が載っていて、テレビの番組だなというのはわかった。

みんなで外に出ていたのは、帰るためだったのだろう。斜面の下に宿が見え、その一面に広がるすすき。
そして、ものすごい数の赤とんぼが右に左に群舞していた。とんぼ取りをするにはまだ小さすぎた。晩夏の白布高湯の高原の空一面に舞っていた赤とんぼ。網を振れば、10匹でも20匹でも一度に入ってしまいそうなほど、永遠にとんぼ取りができそうなほどの赤とんぼ。

今、僕は「赤とんぼ」を聞くと、こんな光景を思い浮かべてしまう。
初老の男性が故郷を離れて暮らしを立て、どこかの田舎かそれは故郷であってもいいが、ある夕暮れどき、たまたまさおの先にとまっている赤とんぼを見た。そのとき「赤とんぼ」というキーワードがスイッチをいれ、何十年かの人生を一瞬のうちに回想する。自分の人生が走馬燈のように巡る。どのような人生を送っただろうか。大成したとしても、そんなにいいことがなかったと思うような人生だったとしても、一瞬のうちに自分の生きてきた様々なことが思い起こされ、そしてふとまた感慨から我に返ると、やはりそこにはいっぴきの赤とんぼがまだとまっている。あっという間に人生は過ぎ去り、過ぎてしまえばそれは一瞬の夢に似て短い、そんなふうに人生を思い返す。
僕にはそんなふうに感じられてしまう。

夕焼けこやけの赤とんぼ
 とまっているよさおの先

この歌詞を書いた三木露風は、この詩の発表当時32歳。露風の両親は彼が5歳の時に父親の放蕩が原因で離婚とあって、手元のもので見たかぎりでは(たぶん父方であろう)祖父のところに引き取られて育てられたとある。「負われて見た」というその背負ってくれた人は、僕個人的には、それは母であって欲しいと思う。母の背の感触、母の声、母の匂い。「負っていた」のは一般的には姐や(子守娘)と解釈されるようだけれども、母とは物心がついてからすぐに別れていることを思うと、母への思いもひとしおであったのではと。
幼い頃に遊び場だったろう自然。桑の実を摘めばわかることだが、つぶれた実で手が黒く染まり、すぐには落ちない。洗っても洗っても落ちなかった手に着いたあの桑の汁さえ、それさえも過ぎてしまった過去、手の届かないまぼろし。
身の回りの世話をしてくれたであろう「姐や」は嫁いでいった。この曲は自分を背負ってくれた姐や(子守娘)を思い出して作詞したと言われているそうなのだが、そうしたらなおのこと、一番身近にいたであろう少し年上の女性にどんな思いを男の子は抱いていたのだろうか。時が経てば嫁ぎ先からの挨拶状もなくなり、姐やへの思いだけが、時計が止まったように少年の心に残る。
どのように解釈しようとも、ある意味では露風の心そのものではないだろうし、また、これ自体が既に「赤とんぼ」として生きているのだから、感じたままに受け取ればいいのだろうと思うが、僕なりの講釈をつけてしまった。

夕焼け小焼けの赤とんぼ
 負われて見たのはいつの日か


山の畑の桑の実を

 小籠に摘んだはまぼろしか


十五で姐やは嫁に行き

 お里のたよりも絶えはてた

「赤とんぼ」は、ややもするとあれは僕の思い違いや夢であったのかと思うほど遠い記憶になってしまったあの白布温泉での光景につながってゆく。遠い記憶であろうと、一秒前の過去であろうと、それはどちらにしても手の届かない夢に似ているけれども、それでいて、確かに今の自分の一部分になっている。

幼稚園でスキップができなくて、とても恥ずかしくて悲しくて切なかったことがあった。その時のモッズを着た幼稚園児のぼくに出会うと、僕はそのぼくをきっつく抱きしめてあげたい気持ちになる。僕は子供だった頃のぼくにふとした瞬間に出合い、そしてその頃のぼくの心に触れてしまう。そのとき、たまらなく愛しく、抱きしめたい思いになる。感傷的に言うのではなく、その頃の幼い自分が確かに今も生きているから。今の自分の心の中で、幼い自分の心臓の鼓動が響いているから。
さおの先の赤とんぼを見ている初老の男性の中にも、母に背負われた幼い自分の心や、姐やに淡い気持ちを抱いた自分の心が、生きている。そして、赤とんぼはそれに触れる秘密の鍵。

僕には赤とんぼの記憶がある。晩夏の白布高湯の高原の空一面に舞っていた赤とんぼ。夕焼けでもないのに空が茜色に染まってしまうほどの赤とんぼ。五十になった今でも、その赤とんぼが舞う光景を確かに覚えている。あれは確かに僕が見た光景。もうセピア色も退色してしまい、写っている人の姿もはっきりしなくなってしまったけれども。
「赤とんぼ」は、僕の古いアルバムの表紙の片隅に描いてある。

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こんな子孫ですいません・・・ [田舎のこと・母のこと]

先日、ちょっとした思いつきで、上杉藩とほにゃらら、で検索したら、Wikipediaというのに、どうもご先祖様らしい人が出てきたので驚いた。
それを読むと、今は市に組み込まれているけれども、同じ名前の赤湯という村の、「あぶらや」という町人宿の生まれとある。ぼくが生まれたときには八百屋をやっていたが同じ「あぶらや」だった。同じ村に同じ屋号はないはず、商売は変わったけれども同じ「あぶらや」としか考えられない。
中学生頃に、母に「ご先祖様に頭のいい人がいて、東大で医学を勉強して偉くなった人がいる」と聞いたことがあった。(当時の母の気持ちとしては、だからおまえも頼むから少しは勉強しろ、と)読んでいると明治時代に医学でベルリン大学に留学していたり、後年は金沢医科大学(今の金沢大学)の学長をしたとある。遠いご先祖様、いやいや、たいしたもんだことと思う。
興味深かったのは、著書の中に『写真小話』というのがあったこと。今は便利なもので、写真に撮ったものがインターネットにアップされていて、ぱらぱらとめくってゆくと、化学式なども多く出てくるあたりは、さすがに医学博士だ。「写真は芸術か否か」ということにもちょっと論考しているあたりもおもしろい。科学する人として写真は大いに興味があったろうが、それにしてもこの時代に本格的に写真の技術について書いているのはすごいことだと思う。ぼくの気がつかないところで、このご先祖様から写真についてのことを学んでいるかも知れないな、と思うと、なんだか巡ってゆくものを感じる。
化学のことが出たので、ついでにというか。ぼくは高校生の時に、化学Ⅰだったか化学Ⅱで、7点をとったことがある。もちろん、100点満点の試験で。全く自慢にはならない。化学は不得意中の不得意だったが、我ながらさすがに驚いた。子孫のためにはちょっと内緒にしておいた方がよかったかも知れない。ちなみに、得意な科目はなかった。なんせ「潜水艦時代」だったし。ご先祖様とのこの大きな違い。
著書の中にはなぜか『掃除の仕方』というのもあって、これも個人的には興味深い。
母は昭和6年の生まれだったが、昭和9年に亡くなっていらっしゃるこのご先祖様、いったいどういう方だったのかと夢はちょっとふくらむ。

うちの墓は、赤湯というところのはずれにある東正寺というお寺さんにあるが、このご先祖様も墓所はこの東正寺とある。金沢で学長として勤めたあと晩年は赤湯に戻ったのだろうか。まさか。ひょっとしたら、あそこのうちのお墓にいっしょにいるのだろうか。まさか。いずれにしても、ご住職にうかがって、一度手を合わせたいと思う。
そのときには「こんな子孫ですいません・・・」と忘れずに謝らなければ。






http://ja.wikipedia.org/wiki/須藤憲三
近代デジタルライブラリー『写真小話』
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サン=テグジュペリ、母の死についてなど [田舎のこと・母のこと]

サン=テグジュペリが、『人間の土地』という本の中で、奇しくも母の死の意味というか彼なり見方を書いていた。
「・・・ぼくは一度、母の臨終の床に侍した三人の農夫を身近に見たことがあった。もとよりそれは痛々しくはあった。二度目の臍の緒が断ち切られるわけだった。一つの世代を他の世代につなぐ結び目が、二度目に解けるわけだった。この三人の息子たちは、今や孤独の(ママ)自分たちを見いだしたわけだった。・・・」
(堀口大學訳、新潮文庫より)

二度目の臍の緒が切れる、か。僕にとってはとてもすっきりと腑に落ちた。いままでの自分自身の心持ちを振り返って、たしかにそうした孤独を感じていたのだと思う。
この本の中でサン=テグジュペリは愛についても書いていて、その言葉は以前から知っていて好きなのであわせて。

「・・・愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだと。・・・」
(同上)

この本には他にも心にしみることばがたくさんあったが割愛。サン=テグジュペリは砂漠に墜落して、同乗していたプレヴォーとふたりして生と死の稜線をさまよったことも書いてあって、もちろんその出来事は『星の王子さま』につながってゆくことになるね。

母、沖縄にて [田舎のこと・母のこと]

沖縄の糸満に住んでいたときに、母が一週間ほど泊まりに来たことがあった。
その頃はもう糖尿病もすすみ、腎臓もだいぶ悪くなっていたから、足のむくみもひどく、歩くのもちょっとおぼつかない感じだった。そして、沖縄に来たその日から
「山形さ、かえりっちぇなぁ」(山形に帰りたいなぁ)
といっていた。少し無理に連れてきたきらいもあったので仕方がないといえばそうだが、それにしても、あまりにも連れてきた甲斐がないが、母はそんなふうにへそ曲がりなところがあった。
母が来る前には、家のあちこちに竹竿のにわか手すりを作り、トイレにはしっかりとした手すりを据え付けた。
無理でない程度にあちこちドライブに行ったりした。母は植物、とりわけ花々が好きなので、沖縄で一番大きな植物園である南西植物園にもいった。
そこでゆっくりと緑の中を歩くのは母の体にはとてもいいようだった。
「あらら、なんだべこれは」(あら、何でしょうこれは)
などと声を上げて驚いたりしながら、母は見たことのない緑と花々をゆっくり見て回った。それに園内を走っているバスに乗って遊覧したりもした。
せっかく沖縄に来たのだからと、どこぞの美しい海岸にも行った。海岸近くに車を止めて、母が車を降りると、さっそくそのあたりの南国の木々に目をやり白い小さな花を見つけて
「きれいだごど」
といっていた。
僕には見つけることのできない小さな花々をすぐに見つけて、これは美しいとか、この花だと仲間だな、とかいって、結局海には目もくれなかった。青い海には全く興味を示すことはなかった。
首里城にも行った。・・・たどり着けなかったが。
駐車場に車を止めて、そこから首里城まで歩いてゆこうと思った。首里は坂の町で、車をおりてからは幅の狭い歩道を上らなければならない。その坂道は滑りやすく、あまりにも危かしかったので、母の手を取ろうとした。
「いいがら」(そんなことしなくていいから)
といって、母は僕の手を振り払った。
母がそうしたいのだったら、それはそれで別にいいのだが、ただ本当にあぶなかしかったので、
「んじゃ、かえっぺは」(それじゃあ、帰ろうか)
とうながして、首里城は見ずじまいになった。首里城もそれほどみたいものではなかったのだろう。
後日、ある人に母が手を振り払った話しをしたら、その人は、お母さんはあなたに面倒を見て欲しくてあなたを育てたのではなく、お母さんはずっとあなたの母でいたかったのだと思うよ、といった。

幸せなずる休み [田舎のこと・母のこと]

高校に入ってから、成績が急降下した。テストが多くしかも順位付けの好きな高校だったので、だいたい真ん中くらいで入学しただろうことはわかっていたが、1年の夏休み明けの2学期から成績は急降下し、潜水艦でいえば操作不能のまま海底に船体をこすりながらさまよっている状態だった。そんなふうだったから学校も行きたくなく(学校に行きたくないのは実は幼稚園の頃からだったが)、なんというか、とにかく学校には行きたくなかった。
1年の3学期が終わって受け取った通知票はだいぶ赤が多かった。そして、2年の3学期が終わって受け取った通知票は見事に真っ赤で、ある意味美しくさえあった。この時期、不良をやっていたわけではない。普通に勉強しなければと、と思っていたが勉強してもわからなかった。だから気力も続かないし、そして、ますますわからないスパイラルに陥り、浮上する可能性の見いだせない潜水艦は、深海へ深海へと沈没していった。
ちなみに、この壊れた潜水艦のように生きていた青春のその時期を「潜水艦時代」と呼んでいる。

1年の時か2年だったか、いずれにしても冬だったから3学期だった。いつもではあるけど、そのときは特に学校に行きたくなくて、風邪だとか頭が痛いとかなんとか言って、学校を休むと母にいった。
いつもだったら
「ほら、学校さ、いがんなねごで」(さあ、学校に行かなければならないでしょ)
という母が、
「んだが」(そうか)
というだけだった。そして僕はまんまと休んだ。具合が悪いのは嘘ではないが、「行きたくない病」からなんとなく具合が悪くなっているので、まあ、行けないこともないともいえるので、半分はずる休みかなと思わないこともない。
母は朝の家事が一段落すると、居間のこたつに足を突っこんだ。四畳半の居間は南に面して、古い磨りガラスの窓を通して冬の低い陽を部屋の奥まで取り入れて暖かかった。
壁に背をもたせかけてこたつにあたれる所が母のいつもの場所だった。テレビでは小川宏の朝のワイドショーか何かをやっていたかもしれない。
休んでいた毎日、僕もこたつに足を突っこんで、母の隣でミカンや煎餅を食いながら、いつもは見ることのないテレビ番組を見て、ぼおっとしていた。穏やかな日が続き、小春日和の陽が入って暖かかった。
母は編み物が好きだったのだろう、ずっと編み物の手を動かし、昼近くになれば昼飯の用意をしてくれた。少なくともそんなだったような気がする。そのころ母はスナックをやっていてたから、昼の時間はそうやってゆっくり過ごすことが常だったのだろう。
僕が休んでいる間、母は学校に行けとは一言も言わなかった。こたつの隣に座って、僕はときどき横になってテレビを見たりしながら、冬の日だまりの中で母と過ごした。母は学校のことや勉強のことにも触れなかった。テレビの中の現実味のないどうでもいいようなことを話したりしたのだろうと思う。
朝から陽が傾くまで、何となく一緒にそうしていた。そんなふうにして母はただ一緒にいてくれた。今思えば、あったかい何かにつつまれている感じだった。
自分自身いつになったら学校に行くのだろうと不安があったが、一週間後「そろそろ行くか」と心の中で思って何事もなかったように学校に行った。
なぜ学校に行こうと思ったのか、そのときはわからなかったけれども、今はとてもよくわかる。

長い時間「母とただ一緒にいた」のは、それが最後になってしまった。自分の部屋にこもって受験勉強のまねごとを始めてからはそんなこともなかったし、大学に入ってからは、長い休みに帰りはしたものの、他のことに忙しかった。社会に出てから、ほんのちょっと家にいたことはあったが、そうした時間は持たないでしまった。
ほんとうに幸せな時間だった。豊かな時間だった。かけがえのない時間だった。可能なら今でも帰りたい時間だった。

夕焼けの思い出 [田舎のこと・母のこと]

幼稚園児の頃だったろうか
どこへ行った帰りか
家に帰ると
玄関が閉まっていて
誰もいなくって
ぼくは当たり前のように
お母さんが待っていると思っていたのに
いないから
寂しくって寂しくって
おかあさん、おかあさん、
と家の前で何度も泣き叫んで
それでもおかあさんはいなくって
夕方の
絵に描いたような赤い夕焼けで
寂しくって寂しくって
ただ立ちすくんで泣いて
おかあさん
おかあさん、って泣いて
どのくらいたったのか
おかあさんが帰ってきて
どういって慰めてくれたのか
覚えていないけれど
お母さんがいて
それでよかった。


過日、一周忌の法要をしに山形に行った。秋らしい張りのある空気が陽に暖められた穏やかな日だった。
東正寺の本堂はがらんと開け放たれ、その奥の間に代々のご住職の大きな写真が7,8枚ほど並んで飾ってあるのが見えた。天井には龍の絵やら天女らしい女性やらが描かれていた。あちこちに書も飾ってあったがどれも読めなかった。小さい頃から来ていたお寺ではあったが、こうしてゆっくりと眺めるのは初めてのような気がする。ときおり母の戒名の一部らしい音が聞こえるが、ご住職の歯切れのいいお経の声と木魚の音がただ心地よく聞こえた。
こうして僕が引きずっているのは、忘れないためではなくて、何かをちゃんと完了してゆくためだと思う、たぶん。


ミズヒキ [田舎のこと・母のこと]

20100822.jpg物置の脇の草を少しむしって、そのあとにミズヒキを植えた。ミズヒキは通りの向かいの薮に群生しているさしつかえないところを2、3株、移植ベラで小さな根っこと細い茎を傷つけないように気をつけながら掘ってきた。

昨年は母の見舞いになんども山形に帰った。母は入退院を繰り返していたが、入院していた病院は置賜盆地の外れにある公立の病院で、ぶどう棚が途切れたところにぽつんと建っていた。ローカル線の今泉という小さな駅で降り、すぐ前にある旅館に宿をとり、そこからゆっくり散歩がてら小一時間ほどかけて病院まで歩いて行っていた。
そうしていると病院の近道もおぼえ、病院の敷地の裏側の、手入れされず雑草が生えているところを通ってゆくようになった。
あるときそこを通ったら、一面に野の花が小さな花々を咲かせ、それが真っ青な空から降りそそがれた光に輝いて美しいなあと思った。少し摘ませてもらって、母に持ってゆこうと思った。三種類ほどを何本かずつ、親指と人差し指で小さな丸を作ったくらい摘ませてもらった。病室には花瓶などはなく、売店でビックルとかいう飲み物が小さなビン入りなのを見つけて、それを一本買って飲み干して花挿しにした。
母の枕元には母の友人か知人が持ってきてくれたバラの花のアレンジメントがあって、そのわきにビックルの瓶をおいた。母はビックルの瓶に目をやると、こういう花が一番きれいだ、ということを言った。後日母の絵を整理してみると、確かにツユクサとか、ミズヒキとかそういった万葉の時代からあったであろう花々をよく描いていた。
ミズヒキのほかにどんな花を摘んだのか覚えていない。名前を知っていたら忘れもしないだろうが。黄色い花に紫色の花だったろうか。いずれにしても大和のささやかに咲く花々だった。母はこういうのがいい、こういうのがきれいだと何度も言った。

ミズヒキに土をかぶせ、ちゃんと根付くように根っこのあたりを手で押さえながら、そんなことを思い出した。ミズヒキが咲いていたのだから、ちょうど一年前の今時分の季節だったのだろう。そして、そんな母に産んでもらって、明日でちょうど50年か、と思う。
絵は、母の描いたミズヒキ。

「おみやげ」の記憶 [田舎のこと・母のこと]

僕はおしめを取り替えてもらった記憶がある。
生家は田舎にしてはわりと大きな八百屋をしていて、そこは母の実家であり母の父が仕切っていた。八百屋の居間は四畳半で、真ん中に小さな囲炉裏がきってあった。近在のお百姓さんが立ち寄っては囲炉裏を囲んで腰をかけ、「ばっちゃ」が入れるお茶を飲んでいった。時にはばっちゃはひっきりなしにお茶を入れていた。僕はそこで店番する母におんぶされていたこともあったし、あまりにも忙しいときには帯に結わえられ、その片端を柱に結わえられていたような記憶もおぼろげにある。
お客さんさえいなければ、ちっちゃな僕は店に面したその居間でおしめを取り替えてもらっていたようだ。ある夜、その居間の裸電球の下、母の父である「じっちゃ」がおしめを取り替えてくれた。仰向けにされた僕は、じっちゃに両足を体を丸めるようにぐぐっと上にあげられて、お尻を拭かれ、拭きながらじっちゃは何やら言っていたような気もするが、慣れた手つきでおしめを取り替えてくれたように思う。おしめを取り替えてもらった具体的な記憶はこの一度きりだが、仰向けの自分から、自分自身の足やじっちゃや隙間なく四方に貼られたカレンダーなどを見たように思う。
もうちょっと大きくなって、おしめをして歩けるようになった頃のこと。
その八百屋は町で一番の大通りにあったのと、そこはちょうど小高い丘にある神社の参道の入り口にあったので、春と秋のお祭りには何十件もの露店がでた。毎年のことなので中には母の顔なじみもあり、そのおばちゃんの露店ではおもちゃを売っていたのだろう、どうも僕はそのおばちゃんのお店からお面だかおもちゃだかを手に取ると持ち帰っては、そのお代を母が払いにいったようだ。お店のおばちゃんもそれでいくらかの商売になるし、なんせ目と鼻の先で店を構えているところの子どもだから、好きなようにさせたようだ。
そんなおばちゃんに一度(だけではないかもしれないが)うちに帰されたことがあった。いつものようにおばちゃんの出している露店にとことこ出かけ、露店の前で物色し始めたのだろう。そこでおばちゃんが、
『ほらほら、さぎに「おみやげ」おいできてがらにしろ』
と。まだおしめをしていた僕は、おしめに「おみやげ」、温かく柔らかいものをうんとしまい込んでいた。しかも重たくて少し歩きにくかった記憶もある。おばちゃんは店先で自然が香るのが迷惑だったのだろう、僕を途中まで追い返すように送って、母は『あらあら・・・』といって笑顔で迎えてくれた、ような気がする。そんな記憶。

すべて母に庇護されて生きていた頃の記憶。懐かしい「おみやげ」。

Kさん夫妻のこと [田舎のこと・母のこと]

僕は、山形のうちの隣に住むKさん夫妻が好きだ。
どちらも70歳前後かと思う。
何度かしか伺ったことがないが、玄関先に顔を出すと
「お、お、よぐきたよぐきた。まず、あがれあがれ」
といって、居間にあがらせる。で、午後だったりすると
「まず、いいごで、いっぺえ、いぐべ」
といって、ビールから純米酒まで。

それはさておき、ひょっとしたら内緒かもしれないが、Kさんは実は山伏だ。
それで、山伏修行のときの様子を話してくれる。たとえば真夜中に炭火に唐辛子をたかれて燻しだされる・・・。それはいつも何気なく吸っている空気のありがたさを知るための修業だとか。燻される様子がおかしいのだがうまく伝えられないので割愛。
以前、奥さんの方はだいぶ体が弱かったらしい。Kさんがいうには
「いやあ、体がよわぇがったがらよ、なんじょがしてけんなねなあど思ってよ、そして、山伏の修業さいぐべってさそったごで。そんで、3年ぐれだげ、いったごで。そしたらよ、それがら体が頑丈になってよ。いやあ、いがったな、あれは」
「んだな、あれがら体いぐなってよ。それまでほんとうに大変だったなよ。いぐなったさね。そしていぐなったらばあどは燻されんななのやんだがらいがねごでは」
と言って奥さんはけたけたと歯茎を出して笑う。

あるときは、ちょっと飲んでから、
「んじゃ先生、これがら飲みさいぐべ。いいべ、かあちゃん、「イエライシャン」さ行ってきていいべ。おっぱいどがさわったりしねがらよ、なあ、いいべ」僕のことを先生という。これだけは困る。
奥さんはしかたなく運転手をさせられて僕らを町まで送って、買い物をして時間をつぶしてまた迎えにくる。
そのあいだKさんは水割りを飲んで北島三郎の「山」を右手の拳に力をいれて熱唱した。それから店の女の子となにかデュエットした。
お店の女の子は中国からいきなりこの田舎に来て日本語を覚えたということで、中国人が話すあの感じで山形県東置賜地方の方言になる。
「Kさん、水割りつぐる、だごで」
こんな感じだが、書いている僕もだんだん訳が分からなくなる。
帰りの車の中で、僕は奥さんに
「あのよ、Kさんがよ、おっぱいどがふとももどがよ、一回もさわんねがったっけな。おれよ、ちょんと見ったけがんな」と証言する。ふとももが追加されたのは「イエライシャン」だけあって深いスリットのチャイナドレスだったせい。

Kさん夫妻を見ていて「家」を思う。ダンナは大黒柱。表側に見えて、それはそれでしっかりと家を支えている。奥さんは「梁」(はり)だとおもう。天井裏にあって目にはつかないけれど柱よりも太く長くどっしりとしている。柱が支えているわけでもなく梁が支えているわけでもなく、柱と梁が支え合っている。
二人を見ていて、お互いを大切に思いながら支え合っている感じが伝わって、素敵だと思う。
母の遺作展にも二人してきてくれた。母の思い出話を聞かせてもらった。ありがたいと思う。

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