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Aスタジオ顛末記8〜六本木、種守人〜 [カメラマンになる周辺など]

フィルムのことといっしょに考えてはいたけれども、こんどは現像のことをどうにかしなければならない。
当時Aスタジオを事務所にしている先輩カメラマンが何人かいて、当時の会社名でいえばT現像所、S現像所、Hカラー現像所、モノクロはSアート、赤坂、青山、六本木、広尾あたりの現像所の方が電話を入れれば未現像フィルムを取りにきたり、また現像済みのフィルムをそのつど届けたりしてくれていた。最終便は夜中の11時頃までのところもあった。
Aスタジオが元麻布に新築するのと前後してHカラー現像所は六本木にも営業所を出した。以前の最寄りは青山営業所で、そこは地下鉄で行くような距離だったが、六本木の営業所はその気になれば走ってゆける便利なところにできた。当時はなかったあの巨大なビルのすぐ近くだ。
そのとき所長として来たのがM嶋さんだった。M嶋さんはたぶんK多さんやN澤さんのちょっと下くらいの年で、K多さんの事務所によくお世話になっている頃、毎回いらしていたわけではないけれども、ときおりM嶋さん自身でテスト用のフィルムを持って事務所にいらした。いつも柔和な笑顔の方で、物腰が柔らかく丁寧な方だなあという印象だった。
フィルムというのはエマルジョンナンバー(ざくっというとロット)ごとに、微妙に(ほんとに微妙に)明るさと色合いが違っていて、新しいロットが入荷するたびに現像所内か知り合いのカメラマンの事務所かでテストをして、このエマルジョンナンバーではこうなってますから、このくらい補正して撮った方がいいですよ、という情報を毎月流すのだったが、そのテスト撮影をしなければならない。あまり先輩過ぎると頼みにくいだろうし、頼みやすいからといっても安定しない撮影ではテストとして困る。たぶん何カ所かスタジオのあるカメラマンのところにお願いしていたのではないだろうかと思うが、K多さんのところにもいらっしゃていたのだった。
K多さんのところでは、一杯ずつ入れる美味しいドリップコーヒーを出していたが、営業所に戻ればばたばたと忙しいだろうM嶋さんも、このときは業界の世間話をしたりして、それこそコーヒーブレイクだったのだろう。
僕自身が「ぱしり」として六本木の店頭にもよく行っていたから、M嶋さんが店頭にいらっしゃれば挨拶をするようにもなった。

Fフィルムのあとそれほど経たないうちに、六本木営業所の所長M嶋さんにうかがった。M嶋さんには、独立したときにはHカラー現像所を使わせてもらいますので、今回の旅で撮った分はひとつよろしくお願いします、ということを言ってお願いした。Fフィルムの時にしてもそうだが、思えばずいぶんと勝手なお願いだった。
M嶋さんは快諾してくださった。
フリーとして独立して、この約束はちゃんと守った。Hカラー現像所は新宿にも営業所があって、下北沢に住みはじめた僕にはこちらの方が格段に便利ではあったけれども、わざわざ六本木の営業所まで通っていった。というより、M嶋さんや営業の方など知っていることをいいことに、こまかなお願いをしたり、ときには無理なことをお願いしていた。M嶋さんはきっと、現像が少ないわりにはお願い事の多すぎるやつだなと思いながらも、しょうがないなとにが笑いをしていたのではないかと思う。
1回か2回だと思うけれども、支払いが滞ってしまって、営業の方から催促の電話があったこともあった。後日現像を出しにいったときにM嶋さんに「すいません、ちゃんと払いますので・・・(どうか見捨てないでください)」とお願いしたりした。あの柔和さで、まだ若いんだからとにかく頑張ってやったらいいと、と励ましてくれた。
その後どのくらいしてだったか、M嶋さんが六本木から大阪に転勤になったのだったが、それを潮にやっと僕は新宿店を使うようになった。

このシリーズの一番最初の「Aスタジオ顛末記4〜S原さんのこと〜」をアップした後、じつは当のM嶋さんから、ブログを読んで懐かしく思い出した、とメールをいただいたのだった。最後にお会いしたのがいつだったかも思い出せないほどお会いしていない。本当に懐かしく嬉しかった。
M嶋さんのメールには、今年の3月末で六本木営業所を閉めるということや、M嶋さんが今年の12月で定年退職をなさるということが書いてあった。
あっという間のデジタル化の流れで、現像所が厳しい状況だろうことはよくわかることだ。その当時は六本木の営業所の前の通りに、メルセデスやらボルボやらのカメラマンの車がハザードをあげてとまって、あわただしく現像の出し入れをしていた。活気があって、これでもかというほど忙しかった。
あそこがなくなっちゃうんだなと思うと、終焉といっては寂しすぎるけれど、なにかひとつの時代の区切りとでもいったらいいのだろうかそんなものが感じられて、何とも言い難い寂寥感が肌からつうっとしみてくる。そして、M嶋さんがもう定年なんだなと思うと、感慨深い。今年の12月に僕は日本にはいないだろうけれど、真っ白なカサブランカを大きな花束にして真っ赤なリボンをつけて心の中でプレゼントしよう。ほんとうにありがとうございました、と。もっともM嶋さんはまだまだ若くて元気なので、ご隠居になる予定はなく、次の人生のステージをいろいろと考えていらっしゃるようだが。

ラジオで聞いた。ある女性がこんな実験をした。
「植物に素敵な言葉をかけるのと、ひどい言葉をかけるのとでは育ち方が違うというけれど、本当にそうだろうか」
という実験。その女性はまったく同じ条件を作って、その実験をした。その結果、片方は爛漫ときれいに花を咲かせ、そしてもう片方は・・・、彼女はそれを言葉にしたくない、察してくださいといった。そして、本当にすまないことをしたと胸が裂けてしまう思いだったといった。
僕自身が、くじけそうなときや枯れてしまいそうなとき、そんなときにほんの少しの光や水や愛のある言葉でどれほど救われてきたことか。

M嶋さんにしてもFフィルムの方にしても、若者の夢を寛容に応援してくれた。この先どうなるかわからない若者がやってきて、フィルムをくれとかただで現像してくれとか、思えば本当にムシのいい話をして、それをいやな顔もしないどころか、その時必要だった少しの何かを与えてくれた。その種が生きているかどうかもわからず、その種がどんな花を咲かせるのかもわからずに、ただ優しく見守ってくれたのだった。僕は、この人たちを種守人(たねもりびと)と名付けよう、こんな言葉が僕にはしっくりくる。
同じことをもう一度書こう。こうして年を経て、M嶋さんやFフィルムの方がしてくださったことの意味を少しは味わえるようになって、感謝の気持ちはましてゆく。



追・この旅の出がけには、(株)G一のO西さんなど、他にもたくさんの方にお世話になりました。本当に感謝しております。
それから、Aスタジオ顛末記3をまだ書いていませんが、このまま書かずじまいになるか、そのうち書くかも、といったところです。「Aスタジオ顛末記3〜二重橋だよおっかさん〜」というタイトルにしようとおもってますが。

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