SSブログ

Aスタジオ顛末記6〜ピラミッドへ〜 [カメラマンになる周辺など]

その頃は、スタジオを麻布の方に移転・新築ということで、赤坂のスタジオは閉めて、麻布のマンションに汗臭い男たちがどやどやと住み込んでロケアシ(ロケーション・アシスタント)のサービス、つまり撮影の出張手伝いということを仕事にしていた。
僕は、K多さんのスタジオと、車の撮影を多く手がけているN澤さんのところにお世話になることが多かった。K多さんとN澤さんは、ふたりの人柄的なタイプは違うのだけれども、ふたりとも物撮り(商品撮影)の、たとえるならマイスター級の方だった。Aスタジオ時代を振り返っても、このおふたりには特にお世話になったし、物撮りの基本を教わった。もちろん何も教えてはくれないが。

N澤さんは浜松や広島のスタジオに行って新型やマイナーチェンジした車の撮影を多くしていた。当然泊まりがけでの仕事になる。その頃になるとさすがにミーティングで縮こまることはほとんどなかったものの、それでも地方の小さなシングルの部屋に寝る方が気が楽だったし、浜松のスタジオでは土地柄ときおりお昼に鰻重がでた。鰻重の時は、N澤さんはいつも「すとうには大盛りにしておけ」と注文の人に大盛りを頼んでくれた。嬉しかった。もっともたいがいカメラマンは、アシスタントによくものを食わせる。腹の減った僕らへの厚意ではあるのだけれど、「腹が減っては・・・」という、つまり「しっかり働け」という意味でもあるので、そこは勘違いしてはいけない。いずれにしろ食い物には弱いので、まあ、そういうことでもN澤さんのロケはそんなおまけもちょっと嬉しかった。
デジタル化した今となってはどういうものかよくわからないが、車の撮影というのは、なかなか大変なもので、つまり車という反射するようなものは、車に何を反射させてどのようにライティングするかということで、写されたものが商品そのものになってしまうのだった。その商品のイメージという以上に、商品そのものになってしまう、という責任がついていた。専門的なことはさておいても、かなり技術のいる撮影だった。責任の重い分、当然それだけ神経を使い、時間と手間もかかった。

僕は浜松のスタジオにもよく連れて行ってもらったけれども、広島のスタジオの方が多かったのではないかと思う。
広島のスタジオでは、朝は9時にスタジオに入る。途中、食事休憩と小さな休みはあったが、それ以外はひたすら働く。メインのカットでは、その車が美しく見えるアングルを決め、それから延々とライティングと写り込ませる黒布等をセットしてゆく。カメラ位置からN澤さんは声を張り上げながらライティングを指示してゆく。もっと右だとか左だとか、そのライトじゃなくて一つ手前のやつだとか。スタジオマンはこまめに重いライトを動かす。そうやって一つひとつ丁寧に作ってゆく。メインなどの大きく使うカットは特に神経を使う。丸々2日かけてその1カットを切るということも普通にあった。
この車専用のスタジオでは、車撮影の経験の豊富なスタジオマンがいて、僕はN澤さんのアシスタントとしてカメラまわりのことをするのが仕事だった。露出をはかったり、4×5(シノゴ)のフィルムの詰め替えをしたり、ポラのネガでピントを確認したりなど、相変わらずきりなく仕事があって、気がついたことは全部仕事だった。

夜11時半頃に、軽食だったか夜食だったかが出る短い休憩があった。スタジオマンたちも僕もへろへろになってしまっているが、最終コーナーをぬけ、もう一仕事と気合いを入れ直して最後の直線を突っ走るタイミング。
僕は出していただいたものを食べ、先に真っ暗なスタジオに入って変圧器の主電源をもういちど入れ、ゆっくりと30パーセントまで上げると、タングステンの明かりがスタジオのあちこちでぼんやりとともりだす。BGMに流しているFMのスイッチをオンにすると、ちょうど深夜12時。『JET STREAM』という番組が流れるのだった。オープニング曲は美しく透明なフランク・プゥルセル楽団の「ミスター・ロンリー」。そして、城達也のあのナレーションが静かにスタジオに響きだす。

・・・はてしない光の海を
ゆたかに流れゆく風に心を開けば、
きらめく星座の物語も聞こえてくる・・・

他のスタッフが入る前のちょっとのあいだ、スタジオの冷たいコンクリートに腰を下ろして膝を抱き、ひとり静かに城達也のナレーションとイージーリスニングに耳を澄ます。ジーパンの膝の破れをちょっと撫でたりしながら。一人っきりのスタジオは満天の星座がきらめく荒野に変わり、僕は旅人になる。一曲聴くことができるかできないかのささやかな時間だったが、心安らぐ秘密の世界だった。
他のスタッフが入ってくると一人旅は終わり、N澤さんが入ってくると、ボリュームを下げもしないのに、「悲しき天使」は飛び去り「シバの女王」もどこかに消えて、「サン・トワ・マミー」恋が終わるようにもう世界は消えてなくなって、もう何も聞こえてはこなかった。
そして僕は変圧器を100パーセントまで上げ、また切りのいいところまでがっちりと仕事をして、その日が終わる。

お疲れさまでした、とN澤さんに挨拶をしてビジネスホテルのシングルのドアを押すと、シャワーを浴びないとと思う間もなく「崩れ落ちる兵士」のようにそのままベッドに倒れた。背中にベッドのスプリングのちょっとしたでこぼこを感じながら、こんな事していていいのかなと思う。こうして「いろは」を学んでゆくためにAスタジオにやってきたこともわかっている。ただ、いつまでもここにいてはいけない。もう一歩どうにかしないといけない。ここに慣れすぎてはいけない。毎晩、疲れ切った身体で思うことは同じ事だった。いつまでもこのままでいいのか、と。
麻布のマンションでは、いつもいろんな事がざわついていたし仲間と雑魚寝していたから、自分の声と静かに話しする時間がなかった。そういう意味でもシングルの部屋でひとりそんなことに思いをはせる時間があったことだけでも本当にありがたかった。

そんなことが重なったある晩も、どこかに落ちてしまいそうな感じ、意識が消え入りそうになっていた。そんな瞬間に、ふと思った。
ピラミッドの頂上で記念写真を撮ったら爽快だろうな、と。
ふと脳裏をよぎっただけのことだったが、その一瞬後には、
「ピラミッドの頂上に記念写真を撮りに行く」と決めていた。登っていいかどうかも、実際登れるのかどうかさえ知らずに。
その晩はちょっとだけ考えたりした。
クフ王のあのピラミッドの頂上はとんがっているのかな、とか。
とんがっていたら三脚はどこにどうやって立てたらいいかな、とか。
立てられないときは釣り竿にぶら下げてセルフタイマーで撮ってはどうかな、とか。
きっと、とても短い時間だったのではないかと思う。あまりにも唐突でばからしく思える想像だったけれども、僕は既にピラミッドの上にいた。

後日、というのは1年後くらいにロンリーなバックパッカーになって旅に出るのだった。日本航空提供の「JET STREAM」の企画意図にぴったりはまったわけだが、バックパッカーには、日本航空などという高価なキャリアはそれこそ雲の上であって、当時はバングラデシュのビーマンと安さを競っていたエジプトエアーに乗ることになる。
「巨人の星」時代から相変わらずはまりやすいというか、騙されやすいというか、その気になりやすいというか。「重いコンダラ」は、こんどはバックパックに入れて歩くことになったし、ピラミッドの頂上まで担いで登ることになった。


追記・後日クフ王のピラミッドに登りますが、このピラミッドに登ることは禁止されています。20年以上前のことで時効なので書いてはいますが。禁止されている理由は知りませんが、滑落して死者が出ているやに聞いたことがあります。たしかに降りるときはほんとうに怖かった。

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。