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卒業の頃に・・・(4)哀しいキリギリス [学生の頃のこと]

大学受験では教師を志望して、国立大学の教育学部の中学校の国語科と決めて受験するところを探した。そして、この教育大学に入った。
母からは、経済的な理由から国立大学じゃないとだめだといわれてきた。ちょうど「共通一次」の一期にあたった。全ての国公立大学の学部学科がすっきりとした一覧表になって偏差値というもので現されはじめた(その前からそうだったのかも知れないが)。偏差値一覧表の「教育学部中学校課程国語科」というところにすべて赤鉛筆で下線を引いて模擬試験の偏差値とを照らし合わせると、北海道教育大学の函館分校と釧路分校(今は違うようだが、当時は「分校」と名前がついていた。大学なのに分校かよ、と思った。ちなみに本校はない)、それから琉球大学、この2校だけが引っかかる可能性があるところだった。浪人もだめだといわれていたから、選択肢はそれだけだった。
どちらにしたものかと思ったが、二次試験の科目を検討して北海道教育大学を選んだ。ちなみに二次試験の科目は現代国語・数学Ⅰ・小論文※。小中学校の先生になる為の資質として全員にわざわざ二次試験でまで数学Ⅰはどうかと思ったが、以上が小学校課程も含めて全教科共通だった。
国語科を受けようというのだから現国と小論文はまあよしとなければならない。数学Ⅰは潜水艦時代※の終盤、これはわりと好きになっていたので、これに関してはまあまあかなと思えた。高校では、あるまじきことか理系のクラスにいたが、それは関係ない。
北海道と沖縄、ヒグマに襲われるのがいいか、ハブに噛まれるのがいいか、などと当時は冗談で言ったりしたが、何十年か後には沖縄にも住むこととなった。幸いどちらとも対決することなく今まで過ごしてきた。ちなみに、今現在はサソリの出るところにいる。先日は小さいながらも突然目の前に現れてぞっとした。

話しがヒグマとかハブとかサソリとかになってしまったが、動物学者になろうというのではなかった。話を戻すと、僕はそうやって教育学部を調べたし、受験勉強だって教員になろうと、自分なりに頑張ってやったのだと思う。そうなのだ、あのころは国語の先生として教壇に立つことを思い描いて、そうしながら深夜に濃いコーヒーを流し込んで大学受験ラジオ講座を聴いたりしていたんだ。子どもたちとふれ合いながら子どもたちの夢を一緒に育んでゆく、それを一生の仕事にしようと思ってやってきた。そうした自分の未来を思い描いて教育学部をめざした。
教員だって僕が志望していた道だし、なにも問題ではなかった。むしろこれで踏ん切りが付いたではないか。カメラマンになりたいというのが51で教師が49、そんな割合でカメラマンを選択しようとしたのかも知れない。だったら、49の自分に切り替えたっていいではないか。もともと教師を志望してここまできたのだし。何も問題はない。何も・・・。

試験まであと3ヶ月くらいだったのだろうか。試験勉強をするには、まずは試験勉強用の問題集を手に入れなければと思い、ある晩地学が専門だったYのアパートに行った。この時期、人にもよるだろうが、たいがいの学生は何冊もの問題集をこなしているはずだった。そして僕は、Yのところに使い古しから勉強中のものまで何冊もずらっと並んでいるのを見て知っていた。
僕はYに勉強し終わった一般教養の問題集をくれないかと頼んだ。
クリスチャンのYはいつも穏やかだったが、それでも真剣に怒っているのがわかった。Yは言った。
「本気でやる気があるんならそれくらい自分で買えよ」
と。たしかにYのいうとおりだ。いくら貧乏学生をしていたといっても、買えないわけではなかった。
「その通りだな。わるかったよ」
本当にYの言うとおりだった。ばつが悪かったのですぐ帰ろうとしたが、Yは怒りながらも一冊くれた。一冊だけだと念を押した。いま、Yは北海道で小学校の先生をしている。学生当時は、「流氷飴」※のおみやげのことなど彼にはいろいろと失礼なことを言ったりしたりしてしまったが、試験問題集のこともその一つになる。いろいろごめんよ、Y。
こうして書きながら、甘えていたんだなと思う。Yにはもちろん、いろんなことに。
とにかく試験のための勉強を始めた。専門教科と教職教養と一般教養の3科目があったが、僕の作戦としては点数の上積みの可能性の高い教職教養、それからその次に期待できそうな一般教養とを中心に。専門教科も上積みの余地は非常にたくさんあったが、覚えなければならないこともまた多すぎた。
試験勉強といってもここ4年間も習慣のないやつのこと、能率は上がらないし、進まない。すぐに飽きがきてしまう。こうして実際に試験勉強を始めると、つけられてしまったこの大きな差が、何ともいえず重苦しくのしかかってきた。しかし、3ヶ月というこの限られた期間、とにかくやってみるしかなかった。ダメ元でもなんでも、とにかくやるだけやってみるしかなかった。それにしても、僕は啼くことさえ忘れた哀しいキリギリスだった。









※ちなみに、実際に入試に出た小論文のテーマは「旅と人間形成について」というものだった。
※「幸せなずる休み」参照
https://blog.so-net.ne.jp/MyPage/blog/article/edit/input?id=30139643
※ある夏休み明け、網走出身のYが帰省から戻ったときに、「流氷飴」をお土産に買ってきてくれた。
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