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高田馬場、カレー屋マハバールのおじさんの思い出 [日々の生活のこと]

30代の初めのころから長いこと高田馬場に取引先があって、打ち合わせや納品にときどきいっていた。それがたまたまお昼前に終わったりすると、そこは一人暮らし(当時)の気楽さで、そのへんの店で適当に食って帰った。高田馬場駅前の早稲田通り沿いやその周辺には、学生が気軽に入れる店が多かったから、その日の気分で店を選ぶことができた。

ある時駅前近くにカレー屋を見つけた。表通りに面したガラス窓の中でインド人の料理人がタンドリー(壺窯)でナーンを焼いていて、その香りが何ともかぐわしかった。それと彼のニカッという笑顔にぐらっと誘われて入ってしまった。細長い店内には変な段差があり、奥は少しうすぐらかった。
マハバールというそのカレー屋で「おじさん」は給仕の仕事をしていた。お昼時間に限ってナーンのお代わりが無料だった。おかわりを一枚お願いすると、おじさんは半分に切った焼き上がったばかりの熱いナーンをバケットに入れて持ち、「たくさんおかわりしてくださいね」と優しく目を細めながらトングではさんでプレートに盛りつけてくれた。
スパイスの効いた本格的なインドカレーをナーンでつまんで口に運びながらも、僕はこの人の顔を撮りたいということにしか意識がいっていなかった。どこの国に行ったときだってそうだけれども、人の顔の何を基準に僕は撮りたいと思うのか、僕自身よくはわからない。このときもどうしてなのかはわからないけれども撮らせてもらいたいと思った。

言葉が通じなければ、撮らせてもらえるかもらえないか話は早い。しかし、言葉が通じるだけに撮られる方もなぜ撮りたいのかとか、何に使うんだとかつい聞いてしまう。僕は僕でそれに答えて、必要であれば名刺を出して・・・、とそんなことをしているとさっきの表情はなくなって、その人はそこから消えていってしまう。お願いした手前撮影はするが実際どうでもよくなってしまうようなことがままあった。
その日はそのまま店を出た。

僕はカレーも好きではあるけれども、かといって同じ店に通うほど好きかというと、それほどでもないと思う。しかし、どうしてかは解らなかったけれども、おじさんの顔をどうしても撮らせてもらいたかったから、ちゃんと切り出せるまでマハバールというそのカレー屋には通うことになった。

半年か1年くらいも通ったのだろうか。そのうちなんとなく店ともおじさんともなじみになったころ、ごくごく簡単に理由を説明して、おじさんにポートレートを撮らせてもらえないだろうかと切り出した。変わらない笑顔で、私でよければいいですよと二つ返事だった。
あらかじめ昼食のお客さんが引けて一段落するだろう頃にうかがって、すぐに撮影できるようにカメラの準備もし撮影場所の下見もしていたので、そのまま歩道にでてもらって、5分ほど時間をいただいたろうか、さっと終わらせた。※

その頃はフィルムからデジタルへの移行期だった。どの編集部でも、近年中にはほとんどすべてデジタル化することはわかっていても、デジタルカメラでの撮影では、印刷上の仕上がりがどうなるのかまだまだ「読めない」ところがあって逡巡していた。僕も3割方はデジタルカメラで仕事をしていたのではないかと思うけれども、まだまだ体になじまないでいた。そういうこと以上に、一連の「人の顔」はどうしてもフィルムで撮り切りたかったから、おじさんの顔もやはりリバーサルフィルムを準備していた。デジタル化した今となっては顔の表情さえも容易に変えることができてしまうけれども、スライド用のリバーサルフィルムは、明るさもアングルも光の質もすべてが一発勝負で、こうして書きながらもフィルムの時代が懐かしく、どうしても隔世の感を禁じ得ない。

数ヶ月後になってしまったと思うが、開店してすぐの、まだお客さんのいない時間にうかがった。写真を撮らせてもらったお礼に、A3の大きさにプリントアウトした写真を2枚持って行った。おじさんは早速封からだして両手を伸ばして目を細めて嬉しそうにしばらく見入った。そして、
「いやあ、本当にどうもありがとうございます。いい遺影ができましたよ」
いい遺影が・・・、まんざら冗談というわけでもなく嬉しそうに笑顔でそうおしゃったのに、僕は返す言葉がなくただ困惑と笑みを浮かべただけだった。
僕は仕事に行く途中だったので、食事はせずにそのまま失礼した。その日は雨だった。

僕はマハバールのカレーが好きなのかも知れない。結局その後も折あるごとに食べに行った。夕食の時間でなければおじさんはいつものように店にいて、写真をプレゼントしたあのとき以来、チャイかラッシーのどちらがいいかと聞かれるようになった。セットになっているわけではなく、おじさんが好意でつけてくれるようになった。僕は本当にお構いなくといって時にはどちらとも言わなかったりもしたのだけれども、おじさんは必ずどちらかをサービスしてくれた。冷たいラッシーは胸にスーと染み渡って美味しかった。辛いマトンカレーを食べたあとや、暑い日などは格別だった。おじさんは、最後までそんなふうにもてなしてくださった。
「おじさん」というのは、マハバールの経営者か店長の叔父にあたるために、おじさんとみんなに呼ばれていたということだった。正確な年齢は知らないけれども、最初にお会いしたころでも70歳を越していたのではないだろうかと思う。


おじさんが亡くなったことを知ったのは、沖縄にいたときだった。知らない女性から携帯に電話がきて、ナガワと申しますが、というのにはじめは誰のことか全く見当がつかなかった。父が亡くなりまして、つきましては遺影にすとうさんがお撮りになりました写真を使わせていただきたいのですが、というところまで聞いてはっとした。マハバールのおじさんが亡くなったのだとやっと気がついた。快諾するまでもなく、人に差し上げたものだからどのように使っていただいても結構なのですよと答えた。

その年の夏か次の年の夏か、いずれにしても1年と経たないその夏に、いちどお線香を上げさせてもらいにいった。本来だったらお通夜に伺うべきところだったが、沖縄という距離から、失礼してしまって、次に東京へ行く機会によらせてもらったのだった。
早稲田通りに面したマハバールから明治通りにでて、新宿方向にしばらく歩いたところにマンションはあった。その都営のマンションは今となってはだいぶ年季も入った建物だったが、建った当初はモダンなものだったに違いない。建物の下から、何度も塗り直されただろう白いコンクリートの壁に、夏の光がぎらぎらと反射するのを見ながらも、時間の流れを隠しきれないのを感じた。そして、そう遠くない頃に取り壊されるのかもしれないなとふと思った。
遅めのエレベーターで最上階の11階まで上って、人のいない通路をドアの脇の番号を一つ一つ見ながら部屋をさがした。


奥さんが香りのいいお茶とお茶菓子を出してくださって、それからお亡くなりになった経緯を丁寧に話してくださった。
その話しが一息ついたあと遺影の話しになり、
「お葬式の時に遺影の前に華を飾っていたら、葬儀屋さんに注意されたんですよ。こんなにいい遺影はなかなかないから華で隠れるともったいないって。それで写真が隠れないように花を脇の方に飾って・・・。どなたもいうんですよ、いい写真ですねって」
そういってから、おじさんを見て小さく微笑まれた。
僕も振り向いて改めてみると、ま新しい小さな仏壇の真ん中でいつものように微笑んでいた。「たくさんお代わりしてくださいね」という、笑顔も蝶ネクタイの姿もそれから声も、すべてが思い出された。

マンションの中はこざっぱりとしていて、すっきりとした生活をしていただろう様子がうかがえた。若かった頃は相当美人であったろうこの上品な奥さんとここで暮らしたのだなあ、と思う。この二人が若かりし頃は、ダンスホールとかミルクホールとかがはやった頃だったのだろうか。二十代の二人が胸をよせて踊る姿が容易に想像がついた。とてもお似合いだったろうと思う。

奥さんは、写真集の出版記念パーティーにおじさんと一緒にお越しくださったので、そのときにいちどご挨拶をした。
その折りに、おじさんは若い頃はさぞダンディーだったのではないですか、と水を向けると
「そうなんですよ。今でこそこんなに背中が曲がってしまいましたけど、かっこよかったんですよ」
とまんざらでもない様子で微笑まれた。おじさんはにこにこしながら聞いているだけだった。
パーティーでは、誰に挨拶したかもしてないかも訳がわからないほどはばたばたしてしまい、おじさんと奥さんとお話をしたのはそれくらいの挨拶ていどになってしまったのではなかったかと思う。おじさんと奥さんが高田馬場の取引先の女性社長と楽しげに話しをしているのが目に入った気もしたが、定かな記憶ではない。あの時間を楽しく過ごしてくれたのだったらよかったのだが。

順番順番でやってくるものはやってくる。その順番が逆転したりしたときの方が悲しみは大きく不条理なものを感じたりするのかもしれない。そうは思っても親しい人に順番が廻ってくると、やはり何ともいえない。

マンションの窓の外はまぶしく、その下で桜の葉が揺れもせずに輝いていた。この公園にはいつだったか花見に来たことがあったのを思い出す。この公園の、樹という樹が桜の木だ。11階から見渡す桜は、きっと桜の川がゆったりと流れるように見えて、さぞ美しいことだろうと思う。
二人は毎年この桜を楽しみにしていたことだろう。ここで何度春を迎えて桜を眺めたことだろうか。


今年の春、たまたま明治通りから早稲田通りをとおって高田馬場駅まで歩いた。早稲田通りに入ってすぐの古い映画館は健在だった。そこを過ぎた反対側には以前はなかった沖縄料理の店とか携帯電話の店が並んでいた。前はどんな店だったのか全く思い出せない。変わってしまったんだなあと思う。次の店次の店と目をやりながら駅の方にさらにくだって行く。
通り過ぎようとしたそこは、まっ白い店内のラーメン屋だか定食屋になっていて、店頭では店のエプロンを着た女の子が呼び込みをしていた。僕は一瞬路上で立ちすくみ、見たものを疑ってしまった。そんな様子を見て、女の子は僕が入ろうかどうか迷っているものと思い、笑顔と開いたメニューで誘った。僕はこの店にはきっと入れないだろう。
喪失感。明大前のあのイタリアンがなくなったときにもこんな想いがした。僕にはどうしようもないのだけれど、何か取り返しのつかないものをなくしてしまって、全身から力が抜けてゆく、そんな喪失感。

おじさんが亡くなったあとも、折りがあればその店には行った。
会計の時に店長さんと、おじさんが亡くなって2年くらいになりますかねえ、早いものですね、とレジをはさんで言葉を交わしたあのときが、高田馬場のマハバールに行った最後だったように思う。














※「おじさん」の写真は下記に掲載
http://www.ningen-isan.com/ningenisan/picture58.html
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