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金継ぎ [いろいろ思うこと]

友だちと読谷村の「やちむんの里」のとあるギャラリーに行ったときのこと。
そのギャラリーは、白木の床で隅には大きな囲炉裏が切られていた。そして、棚や床に焼き物がそれぞれの個性を無言で主張して並んでいた。
日差しの強い真夏の沖縄の昼前、裸足をとおして床に体の熱を吸い取られ気持ちがいい。
一通り見せてもらった頃に
「コーヒーを入れましたから」
と、奥様のやさしい声。
ギャラリーの隅のL字型のカウンターには体格のいいご主人が座っている。ぼくたちもカウンターに勧められてコーヒーをいただく。ご主人は、曰く「水」を飲んでいる。
ご主人とありきたりな挨拶に始まりすぐに陶器の話しになったが、一家言あるご主人のこと、話すにつれ自然と話しに熱を帯びてくる。それに「水」とは泡盛だとすぐにわかったが、それだけにまた口の滑りがいい。
どうした流れだったか「金継ぎ」の話しになった。それまで、僕は金継ぎという言葉を知らなかったが、金継ぎというのは陶磁器が欠けたりしたときの伝統的な修理方法の一つで、簡単にいうと欠けたりひびの入ったところに漆を接着剤として塗り、そのあと金を塗って仕上げるという方法なのだそうだ。
ご主人は続ける。
修理した跡には、ときには何ともいえない味わいが出ることもある。だから、人によっては敬愛する作家の作品をわざと欠いて、自分でそれを金継ぎして、作家の作品の中に自分の金継ぎをいれる。つまり、作家の作品に自分の作品を組み入れてしまうというのだ。

沖縄にいたときのことだからもう3年以上も前のことになるが、どうしてだろうか、ふとしたおりによく思い出す話しだった。

最近になって僕は思う。人の心だって陶器と同じように欠けやすい。人間関係だって壊れやすい。長いこと使っていれば手を滑らせることだってある。長いこと生きていれば人とぶつかることだって少なくない。そして傷つけたり傷ついたり。
振り返れば、僕は欠いてしまった関係を平気で捨ててきたことがなんと多かったことかと思う。そうしたときのことやらを思い返せば、ああもっと大切に継いできたらもっと豊だったろうなと思う。周りには丁寧に金継ぎをして生きている友だちもたくさんいるというのに。
怒りや憎しみやわだかまりや、そうしたものをおたがいにゆっくりと補修してゆく。その金継ぎの跡はきっと素敵だろうと思う。時間をかけ手間を惜しまず、しっかりと継ぐ。そんなふうにしてできた人間関係の金継ぎがたくさんあったらかけがえのないひとつの茶碗になるのだろう。
僕はそんなふうにはできないで生きてきた。これからもそんなにすっと何かを変えることはできないだろうと思う。不器用な人間だからと括っていいのかどうかはわからないが、そのひとりには違いない。


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