SSブログ

佃、地下鉄、いびつなりんご [いろいろ思うこと]

北海道で教師をしていた夏休み、山形の母のところに帰り、そしてそこから数日ほどの東京旅行にでかけた。
今となっては行ったところで覚えているのは佃島界隈だけだが、他のところにしても若者が遊びに行くところでも観光地でもなく、およそ20代前半の青年が行きたがるようなところではなかったように思う。

1980年を少し越した頃の佃島は時代から取り残されたようなところで、岸辺や小舟を留めるそのさまには東京などという言葉は遠く不似合いで、むしろ江戸を偲ばせるおもむきだった。住吉神社にしても、ただそこにささやかに居場所を保ってひっそりとたたずんでいた。時計の電池が切れてしまったように、何も変わらずに止まっているようだった。
東京大空襲から辛くも逃げ延びた佃島の家々のたたずまいと路地のありようは、何ともいえずにいい風情だった。人と人との距離を遠からず近すぎずに、微妙にいい間合いを作っているような気がした。縁台が似合う生活の空間だった。

ポケットサイズの東京の地図帳を持ち、それを片手に見知らぬ街を歩き回っては慣れない地下鉄に乗って、また違う街へと移動した。
地下に潜って地下鉄を待つと、暗い緑色の蛍光灯をシャッシャッと切って四角いハコが目の前に停まる。無言で降り無言で乗るひとたち。ハコの中では誰もが通夜のように口を閉ざしている。座席に座ってもいつも居場所がない感じだった。もちろん誰かと話しをしたかったわけではない。ただ、みんなはいったいどうしてしまったんだろう、と思ったのだった。都会を知らない僕には、不思議な光景だった。

ある午後地下鉄に乗ったとき、僕は腹がへっていた。朝から歩きっぱなしでお昼を食べていなかった。膝にのっけたショルダーバッグを開けてりんご※を取り出した。出がけに母が持たせてくれたものを持ち歩いていたのを思い出したのだ。
「いいがらもってげ」
母が持ってゆきなさいと用意したりんごを、荷物になるからいいと断ると、母はこんなふうに言った。
大学に帰るときにも、東京に暮らすようになって東京に帰るときにも、母はよくこんなふうに言ってなにかしら持たせてくれたものだった。
両手の中に小さくいびつな赤りんご。りんごをさすって、その形や皮のざらざらとした感触が伝わる。既製品ではないのだ。
鉄とコンクリートと直線の地下鉄、人さえもが無機質に感じられる中、僕らはともに生きている有機物なのだと思う。工業製品ではないのだ、このいびつさはふたつとないのだと。


どうしてだろうか、佃島と地下鉄といびつなりんごがセットになって思い出される。
東京に暮らすようになって地下鉄は生活の必需品になったが、それでも地下鉄に乗っていると、ふとした瞬間に自分の手の中にりんごがあってほしいと思うことがある。僕は今りんごを手にしていたい、と思うのだった。
ある時、あのころの佃島を探しに行ったことがあった。ま新しい高層住宅がドッドッと天をつくように建ち並ぶ。そこを抜けるコンクリートの道の脇の電柱には「佃」の文字が読めるのだけれども、僕が探しているのはこの佃島ではなかった。
空は建ち並ぶ高層住宅に切り裂かれて、小さく哀しげに見えた。結局僕は、記憶のかけらにさえ出合うことはできなかった。











※旬ではない真夏に出回っていたあのりんごは何という品種だったのだろうか。今のようにりんごといえばフジというような時代ではなく、個性の強いいろんな品種がそれなりにあった。そういえば、庭にはすっぱすぎて誰も食べない青りんごの木もあった。




コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。