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なると [日々の生活のこと]

きのう業者が来て車を引き取っていった。

十日ほどまえ、諏訪からの帰りに車が止まってしまった。
坂道を上るときにボンネットから煙を吐いて、赤信号で止まったらそこでそのまま全く動かなくなってしまった。いろんな故障をしたが、全く動かなくなったのはこれが三回目だった。広い長野県で不安を抱えながら乗るには限界に思えた。

結婚してほどなくアベニールという車に買い換えることになった。この車には「なると」という名前がつけられた。買ったときにホームページの「座って半畳」に載せたように思って見直してみたら、2005年の2月に載せていた。改めてその写真を見るとぴかぴかで「青年だな〜」と思ったのを思い出す。
なるとは東京の墨田区にいたときにやってきて、そのあと沖縄に一緒にいった。沖縄では炎天にさらされて、ワインレッドのメタリック塗装は、天井部分からはげはじめた。スプレーの塗料を買って修理したが、そのまわりがまたはげ落ち、追いつかなくなったので、途中であきらめてしまった。
沖縄からは愛知県の新城市で少しの間すごし、そのあとニカラグアに行っている間は奈良県の山奥の友達のところに預かってもらっていた。帰国後は長野県の阿智村に一年ほどいて、そして、今年の春から今の上田市になった。
あちこち連れ回し、距離も乗った。

業者が引き取りに来る前の日の晩、ひとり車に入って運転席に座った。たとえば飼っている犬が家族であるように、なるとも我が家の家族だ。なると、なると・・・と呼びながら、まさかエンジンはかからないだろうと思いながらもエンジンをかけたら、なんと一発でかかった。聞き親しんだエンジン音を聞きながら涙があふれてしかたがなかった。
一度切った後、もう一度エンジンをかけたが、二度とかからなかった。それが最後だった。

昨日は気持ちのいいさわやかな快晴だった。午前中妻と二人でなるとをきれいに洗車した。車内もよく拭いた。こんなにきれいにするなら、今までしてほしかったと思ってるだろうなとちょっと苦笑い。
なるとは事故に遭うこともなく僕らを守って走ってくれた。8年間、16万キロ、本当にありがと。


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彼岸桜 [日々の生活のこと]

長野に住むまで、お花見というのは立ち並ぶソメイヨシノの下で、飲んだり食ったりするものだと思っていた。
長野県の南部、飯田市や下伊那郡には、江戸彼岸桜とか小彼岸桜とかの彼岸桜系の一本桜があちらこちらに点在している。有名な一本桜にはたいがい名前がついていて、たとえば阿智村の「駒つなぎの桜」だとか飯田市座光寺の「舞台桜」とか飯田市美術博物館の庭にある「安富桜」とか。
「くよとのしだれ桜」などという名前の一本桜もあるが、これは昔そこで内紛騒ぎの合戦があって、たくさんの武士が死んだという。それを悼んで「供養塔」を建てた。それで、くようとう、くよと、となってくよとのしだれ桜と名付けられた。今は巨木になっていて、ゆうに300年は経っているだろうから、ひょっとしたらその合戦を見てきたのかもしれない。
「タカトオコヒガンザクラ」は伊那市の高遠にあって、高遠固有の種類で、ほかにはない。そして、厳しく門外不出となっている。(ほんとうは、いろんな訳があって10本くらいよそに出ている)

この地域では、桜のシーズンになると、一本桜を巡るバスツアーがでる。どこから出るのかは知らないが、大きなバスがひっきりなしにやってきては人をはき出して、また吸い込んで去って行く。それには閉口するが、高遠の桜は「名桜」と冠されることもあって、朝の7時にはすでに混み合うらしい。閉口どころではないかもしれない。

土地の人には、この桜が好きだというひいきがあったりもする。僕にもひいきの桜がある。去年の春に一度見たきりだが、あれは美しかった。まわりに何本かのソメイヨシノがあったのだけれども、木の大きさもそうだし、風格というか妖艶さというか、全く寄せ付けなかった。時折吹き抜ける風に少しばかりはらはらと花びらを散らすさまを見ながら、年老いてあの桜の下で彼岸にゆけるのなら、それはそれで素敵なことだと思うほどだった。
桜というのはどうやって増えてゆくのか知らない。実をつけるのだろうか。そんなふうにも思えない。
桜の古木を見ていると、毎年毎年花を咲かせては散らすためだけに生きている、としか僕には思えない。執念のようなものを感じる。妖艶に花を咲かせようという執念。
彼岸桜のというのは、春の彼岸の頃に花を咲かせるのでこの名前がついたのだそうだ。お寺の境内に何百年も咲いていたり、どこぞの崖に屹立として立つ姿。
見上げるほどの大きさの彼岸桜が、風に誘われ音もなく花びらを散らすさまは、此岸から彼岸への誘いに思われる。

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信州も春へ [日々の生活のこと]

寒暖を繰り返しながら、信州はゆっくり春へと覚めてゆくようだ。

今日はだいぶ暖かくなったな、と思ったら、その晩には外水道が凍ったりする。寒い地方で生まれ育ったけれど、信州というのは冷え方が何か違う気がする。底冷えという表現は近いがぴったりではない。

雪が残り、まだまだ厚く凍った庭畑を見ながらふと思った。
この凍てつく寒さが、夏の豊かさをもたらしてくれるのだと。この深い眠りが、夏の畑を元気にするのだろうと。
目をこすりこすり起きだした男の子が、あっという間に手がつけられないほど元気に遊びだすように。

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大根十耕 [日々の生活のこと]

そろそろ大根の種まきをしなければと思い、農事の本をぱらぱらとめくって大根の項を開いたら、「大根十耕」という言葉にであった。
大根の種を蒔くときには十回も耕すほどによく耕して蒔きなさいという意味とのことだ。
日本人ほど大根好きな人はなく、とくにこの野菜のよく採れる長野県にいると、ホームセンターの種コーナーの棚ひとつが大根の種で埋め尽くされていたりする。ちなみに先日安曇野あたりの道の駅で戸隠地大根、親田辛味大根、たたら辛味大根の種を買った。ちなみにたたら辛味大根は、長野市の西方の鑪(たたら)地区で作られてきた地大根というからなかなかマイナー。これらはひょっとしたらどこかで食べたことがあるのかもしれないが、よく知らない地元の種たち。種まきが結構楽しみ・・・。
話はそれたが、大根はよく耕されてないと根が二股になってしまって商品にならなくなってしまうことがあるらしい。また、種まき発芽時にはまだ害虫も多いのでそうしたことに注意が必要だけれども、基本的には手がかからないらしい。
大根を育てるといっても、いくらかの手伝いをするだけで育つのは大根自身。僕にできることは、せいぜいが土を耕して種を蒔くくらいでしかない。僕が育てたように勘違いしてしまいがちだが、僕にはほとんど何もできない。

にんじんは発芽するかどうかが育てるポイントになるらしい。
「にんじんは笠かぶって蓑着て蒔け」
実際に雨の中で蒔いたかどうかはともかく、にんじんは雨が降っている中で種を蒔くようにという言葉があった。
にんじんは発芽時の乾燥を嫌うために、畑に充分水分のあるときに撒くのがいいとされ、また、土と種がしっかりと接触するように少し圧着してやるのだそうだ。
実際には雨の中で種まきするのは大変すぎるし、種が流れてしまうことも考えると、よく雨が降った翌朝に蒔くのがいいのだろう。
僕にできることはせいぜいそのくらいでしかないと思う。
そして付け加えるなら、見守ることか。
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高田馬場、カレー屋マハバールのおじさんの思い出 [日々の生活のこと]

30代の初めのころから長いこと高田馬場に取引先があって、打ち合わせや納品にときどきいっていた。それがたまたまお昼前に終わったりすると、そこは一人暮らし(当時)の気楽さで、そのへんの店で適当に食って帰った。高田馬場駅前の早稲田通り沿いやその周辺には、学生が気軽に入れる店が多かったから、その日の気分で店を選ぶことができた。

ある時駅前近くにカレー屋を見つけた。表通りに面したガラス窓の中でインド人の料理人がタンドリー(壺窯)でナーンを焼いていて、その香りが何ともかぐわしかった。それと彼のニカッという笑顔にぐらっと誘われて入ってしまった。細長い店内には変な段差があり、奥は少しうすぐらかった。
マハバールというそのカレー屋で「おじさん」は給仕の仕事をしていた。お昼時間に限ってナーンのお代わりが無料だった。おかわりを一枚お願いすると、おじさんは半分に切った焼き上がったばかりの熱いナーンをバケットに入れて持ち、「たくさんおかわりしてくださいね」と優しく目を細めながらトングではさんでプレートに盛りつけてくれた。
スパイスの効いた本格的なインドカレーをナーンでつまんで口に運びながらも、僕はこの人の顔を撮りたいということにしか意識がいっていなかった。どこの国に行ったときだってそうだけれども、人の顔の何を基準に僕は撮りたいと思うのか、僕自身よくはわからない。このときもどうしてなのかはわからないけれども撮らせてもらいたいと思った。

言葉が通じなければ、撮らせてもらえるかもらえないか話は早い。しかし、言葉が通じるだけに撮られる方もなぜ撮りたいのかとか、何に使うんだとかつい聞いてしまう。僕は僕でそれに答えて、必要であれば名刺を出して・・・、とそんなことをしているとさっきの表情はなくなって、その人はそこから消えていってしまう。お願いした手前撮影はするが実際どうでもよくなってしまうようなことがままあった。
その日はそのまま店を出た。

僕はカレーも好きではあるけれども、かといって同じ店に通うほど好きかというと、それほどでもないと思う。しかし、どうしてかは解らなかったけれども、おじさんの顔をどうしても撮らせてもらいたかったから、ちゃんと切り出せるまでマハバールというそのカレー屋には通うことになった。

半年か1年くらいも通ったのだろうか。そのうちなんとなく店ともおじさんともなじみになったころ、ごくごく簡単に理由を説明して、おじさんにポートレートを撮らせてもらえないだろうかと切り出した。変わらない笑顔で、私でよければいいですよと二つ返事だった。
あらかじめ昼食のお客さんが引けて一段落するだろう頃にうかがって、すぐに撮影できるようにカメラの準備もし撮影場所の下見もしていたので、そのまま歩道にでてもらって、5分ほど時間をいただいたろうか、さっと終わらせた。※

その頃はフィルムからデジタルへの移行期だった。どの編集部でも、近年中にはほとんどすべてデジタル化することはわかっていても、デジタルカメラでの撮影では、印刷上の仕上がりがどうなるのかまだまだ「読めない」ところがあって逡巡していた。僕も3割方はデジタルカメラで仕事をしていたのではないかと思うけれども、まだまだ体になじまないでいた。そういうこと以上に、一連の「人の顔」はどうしてもフィルムで撮り切りたかったから、おじさんの顔もやはりリバーサルフィルムを準備していた。デジタル化した今となっては顔の表情さえも容易に変えることができてしまうけれども、スライド用のリバーサルフィルムは、明るさもアングルも光の質もすべてが一発勝負で、こうして書きながらもフィルムの時代が懐かしく、どうしても隔世の感を禁じ得ない。

数ヶ月後になってしまったと思うが、開店してすぐの、まだお客さんのいない時間にうかがった。写真を撮らせてもらったお礼に、A3の大きさにプリントアウトした写真を2枚持って行った。おじさんは早速封からだして両手を伸ばして目を細めて嬉しそうにしばらく見入った。そして、
「いやあ、本当にどうもありがとうございます。いい遺影ができましたよ」
いい遺影が・・・、まんざら冗談というわけでもなく嬉しそうに笑顔でそうおしゃったのに、僕は返す言葉がなくただ困惑と笑みを浮かべただけだった。
僕は仕事に行く途中だったので、食事はせずにそのまま失礼した。その日は雨だった。

僕はマハバールのカレーが好きなのかも知れない。結局その後も折あるごとに食べに行った。夕食の時間でなければおじさんはいつものように店にいて、写真をプレゼントしたあのとき以来、チャイかラッシーのどちらがいいかと聞かれるようになった。セットになっているわけではなく、おじさんが好意でつけてくれるようになった。僕は本当にお構いなくといって時にはどちらとも言わなかったりもしたのだけれども、おじさんは必ずどちらかをサービスしてくれた。冷たいラッシーは胸にスーと染み渡って美味しかった。辛いマトンカレーを食べたあとや、暑い日などは格別だった。おじさんは、最後までそんなふうにもてなしてくださった。
「おじさん」というのは、マハバールの経営者か店長の叔父にあたるために、おじさんとみんなに呼ばれていたということだった。正確な年齢は知らないけれども、最初にお会いしたころでも70歳を越していたのではないだろうかと思う。


おじさんが亡くなったことを知ったのは、沖縄にいたときだった。知らない女性から携帯に電話がきて、ナガワと申しますが、というのにはじめは誰のことか全く見当がつかなかった。父が亡くなりまして、つきましては遺影にすとうさんがお撮りになりました写真を使わせていただきたいのですが、というところまで聞いてはっとした。マハバールのおじさんが亡くなったのだとやっと気がついた。快諾するまでもなく、人に差し上げたものだからどのように使っていただいても結構なのですよと答えた。

その年の夏か次の年の夏か、いずれにしても1年と経たないその夏に、いちどお線香を上げさせてもらいにいった。本来だったらお通夜に伺うべきところだったが、沖縄という距離から、失礼してしまって、次に東京へ行く機会によらせてもらったのだった。
早稲田通りに面したマハバールから明治通りにでて、新宿方向にしばらく歩いたところにマンションはあった。その都営のマンションは今となってはだいぶ年季も入った建物だったが、建った当初はモダンなものだったに違いない。建物の下から、何度も塗り直されただろう白いコンクリートの壁に、夏の光がぎらぎらと反射するのを見ながらも、時間の流れを隠しきれないのを感じた。そして、そう遠くない頃に取り壊されるのかもしれないなとふと思った。
遅めのエレベーターで最上階の11階まで上って、人のいない通路をドアの脇の番号を一つ一つ見ながら部屋をさがした。


奥さんが香りのいいお茶とお茶菓子を出してくださって、それからお亡くなりになった経緯を丁寧に話してくださった。
その話しが一息ついたあと遺影の話しになり、
「お葬式の時に遺影の前に華を飾っていたら、葬儀屋さんに注意されたんですよ。こんなにいい遺影はなかなかないから華で隠れるともったいないって。それで写真が隠れないように花を脇の方に飾って・・・。どなたもいうんですよ、いい写真ですねって」
そういってから、おじさんを見て小さく微笑まれた。
僕も振り向いて改めてみると、ま新しい小さな仏壇の真ん中でいつものように微笑んでいた。「たくさんお代わりしてくださいね」という、笑顔も蝶ネクタイの姿もそれから声も、すべてが思い出された。

マンションの中はこざっぱりとしていて、すっきりとした生活をしていただろう様子がうかがえた。若かった頃は相当美人であったろうこの上品な奥さんとここで暮らしたのだなあ、と思う。この二人が若かりし頃は、ダンスホールとかミルクホールとかがはやった頃だったのだろうか。二十代の二人が胸をよせて踊る姿が容易に想像がついた。とてもお似合いだったろうと思う。

奥さんは、写真集の出版記念パーティーにおじさんと一緒にお越しくださったので、そのときにいちどご挨拶をした。
その折りに、おじさんは若い頃はさぞダンディーだったのではないですか、と水を向けると
「そうなんですよ。今でこそこんなに背中が曲がってしまいましたけど、かっこよかったんですよ」
とまんざらでもない様子で微笑まれた。おじさんはにこにこしながら聞いているだけだった。
パーティーでは、誰に挨拶したかもしてないかも訳がわからないほどはばたばたしてしまい、おじさんと奥さんとお話をしたのはそれくらいの挨拶ていどになってしまったのではなかったかと思う。おじさんと奥さんが高田馬場の取引先の女性社長と楽しげに話しをしているのが目に入った気もしたが、定かな記憶ではない。あの時間を楽しく過ごしてくれたのだったらよかったのだが。

順番順番でやってくるものはやってくる。その順番が逆転したりしたときの方が悲しみは大きく不条理なものを感じたりするのかもしれない。そうは思っても親しい人に順番が廻ってくると、やはり何ともいえない。

マンションの窓の外はまぶしく、その下で桜の葉が揺れもせずに輝いていた。この公園にはいつだったか花見に来たことがあったのを思い出す。この公園の、樹という樹が桜の木だ。11階から見渡す桜は、きっと桜の川がゆったりと流れるように見えて、さぞ美しいことだろうと思う。
二人は毎年この桜を楽しみにしていたことだろう。ここで何度春を迎えて桜を眺めたことだろうか。


今年の春、たまたま明治通りから早稲田通りをとおって高田馬場駅まで歩いた。早稲田通りに入ってすぐの古い映画館は健在だった。そこを過ぎた反対側には以前はなかった沖縄料理の店とか携帯電話の店が並んでいた。前はどんな店だったのか全く思い出せない。変わってしまったんだなあと思う。次の店次の店と目をやりながら駅の方にさらにくだって行く。
通り過ぎようとしたそこは、まっ白い店内のラーメン屋だか定食屋になっていて、店頭では店のエプロンを着た女の子が呼び込みをしていた。僕は一瞬路上で立ちすくみ、見たものを疑ってしまった。そんな様子を見て、女の子は僕が入ろうかどうか迷っているものと思い、笑顔と開いたメニューで誘った。僕はこの店にはきっと入れないだろう。
喪失感。明大前のあのイタリアンがなくなったときにもこんな想いがした。僕にはどうしようもないのだけれど、何か取り返しのつかないものをなくしてしまって、全身から力が抜けてゆく、そんな喪失感。

おじさんが亡くなったあとも、折りがあればその店には行った。
会計の時に店長さんと、おじさんが亡くなって2年くらいになりますかねえ、早いものですね、とレジをはさんで言葉を交わしたあのときが、高田馬場のマハバールに行った最後だったように思う。














※「おじさん」の写真は下記に掲載
http://www.ningen-isan.com/ningenisan/picture58.html
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メルカドの野良犬 [日々の生活のこと]

この野良犬はいつもこのメルカド(市場)のごみごみした中にいる。店の前に来られるとじゃまなので「シッ!」と追いやられ、人混みを歩いてはじゃまにされて、人がこぼしたわずかな物を探して歩いている。
たしかに野良なのだろうけれど、考えようによっては、このメルカド全体で飼っているとも言えるかも知れない。その気になって駆除しようとすればいつでもできたのに、そうはしてこなかったのだから。
野良・・・、どこか人ごとには、関係ないことには思えない感じがするのはどうしてだろう。
個犬情報保護の観点で顔を写さなかった、訳ではない。
ニカラグアにて
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露堂々 [日々の生活のこと]

松山の駅前について、そこから車で1時間ほど山の方に入る。3年ぶりくらいになるだろうか、懐かしいKさん夫妻にあった。
朝は、夫婦二人して山道を少しくだったところにあるお堂まで新聞を取りに行くことから始まる。林の中の小道を急ぐことなく、風や木の匂いや陽の光を味わうように散歩しながらくだって行く。犬のモモもとことこついてくる。(前に来たときには、モモはまだ臆病だったが、今はちゃんとイノシシの番もするようになっていた)途中道のきわにキノコを見つけては二人で大騒ぎし、食えるとか食えないとかうまいとかそうでもないとかを確かめて、それが上物だったりすると目印に持ってきたざるを置いたりして、帰りの収穫物にする。モモは何かの匂いをかぎつけたりすると、そのまま林の中に入っていって自由行動になる。
十分くらい歩くと林を抜け、さっと視界が開け、開けた正面に谷の向かいの小高い山々が見え、その峰の上が白んで太陽がそこから昇ろうとしているのがわかる。まずそこで日の昇る方に向かって手を合わせて祈る。そこからあと数分くだってお堂に着くと、そこでまたお堂に向かって手を合わせる。
ちょうど林の手前に一軒の家があり、そこに一人で住んでいる80才過ぎのおばさんがいらして、帰りにそこをちらと覗き、手押し車のあるなしを見て、あったら声をかけてようすをみる。隣に住んでいる家族のような感じだ。
Kさん宅の和室に寝泊まりさせてもらった。六畳間のその床の間には、奥さんが庭で摘んだであろう秋の赤い実をつけた小枝と白い野の花を生けておいてくださった。そして、掛け軸には「露堂々」とあった。
露堂々の意味は知らなかったが、今時なのでネットをひもとくと、「明歴々露堂々」とあって、禅の言葉とのことで、すべての存在が明らかに、全ての物事がはっきり現れているさまで、そのままの姿の全てが真理の現れである。また、それにもし気がつかないのであれば、それは見ようとしないか、眼が曇っていることに気づきなさい。ひいては、自分自身もすべてをさらけ出して堂々と生きなさい、という意も。
Kさん夫妻の雰囲気をうまく書き表すのはちょっと難しいが、露堂々という感じはあう。
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石垣島の商店街スタンプ [日々の生活のこと]

30代の中頃のことだから、もう十何年も前になるが、一ヶ月くらい沖縄を旅した。
どこをどう行ったか定かではないが、仕事も絡めてやんばる(大宜味村、今帰仁村)と阿嘉島、そして全くプライベートで与那国島、石垣島、竹富島、それと鳩間島、だったろうか。日程は鳩間島の豊年祭に合わせて組んだのだったと思う。

石垣島の白保の海で珊瑚の群落を見に行った。シュノーケルは咥えるものの、僕は足ひれがうまく使えないので、足ひれは持たずに船に乗り、海に入ってから足のビーチサンダルを手にはめなおして、水をかきやすいようにして泳いで潜って珊瑚や熱帯魚を見たりした。変な格好だったろうと思う。いつも船を出しているだろうその船頭のおじさんが
「にーさんは泳ぎが達者ね。」
とほめてくれた。
海で生きている人に泳ぎをほめられて嬉しかった。

石垣の町はずれの安宿に何泊かした。校庭に大きなデイゴの木のある小学校が近くにあり、こぢんまりとした作りの家々がならぶ古くからの地域で、新しい商店街からは遠かった。朝飯用に菓子パンとかカップラーメンとかを買いに、近所のごく普通の昔ながらのお店に立ち寄った。品揃えの少ない中からパンと飲み物を手にとってレジで支払いをすると、おつりと商店街のスタンプ、切手よりもまだまだ小さいスタンプを何枚か渡された。僕の後ろにご近所らしいおばさんがレジを待っていたので、僕が「使います?」と聞いたら、瞬間びっくりしたけれども、「ありがとね」といってもらい、そして、その一瞬あとに僕を見て
「あなたにはいいことが起こるね」
といった。そして、店番のおばさんも少しにこっとして肯いたようだった。
「あなたにはいいことが起こるね」か。
そのときはその意味がわからなかったけれども、今思えばそんな言葉をもらえたこと自体が僕にとっては素敵なすばらしいことだった。
言葉は心に刻まれ、そしてその刻まれた言葉は予言かまじないのような力を持って明日を作ってゆくように思える。

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うまくいえないけれど、釣りは [日々の生活のこと]

夕方いつもの釣り場に行って遠投する。
思いっきり釣り竿を振り投げて打ち込みをするのは気持ちがいい。
釣り場(ここは堤防のようなところだけど)では、人それぞれに釣りをしている。
最近は烏賊が旬で(終わり頃だけれど)、烏賊釣りの人も多いけれど、
それにしたってみんな烏賊釣りのスタイルというか、やり方というか、極端に言えば
意味が違う。ウキ釣りをするのと打ち込みでは釣りをしている間の意識が違わなければ
それぞれ釣りにならない。
今日の空は鰯雲が広がって美しかった。日が沈む前、太陽が鰯雲の隙間から赤い光をさして一瞬光芒をのばす。地上の人工物を見なければ、何百年前と変わらないのだろうと思う。
そんなことを思いながらお魚さんがお食事をしてくれないかと待つ。
こんなんだから、釣れない。
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2010-03-04 [日々の生活のこと]

今日初めて名古屋資本のカレーチェーンのカレーを食べた。客人がどうしてもそれを一度食べてみたいというので、喜んでつきあわせてもらった。僕は少しからめのルーで、とんかつのトッピング。食べ終わってから写真を撮っておくんだと思ってもあとのなんとか。で、客人が大事にもらってきたリーフレットの写真を撮る。
diary100304.jpg
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カリフラワーとなんとか・・・ [日々の生活のこと]

diary100303.jpg隣のねーねーからカリフラワーとなんとかをもらった。沖縄では今まで知らないものや事をいろいろ学ばせてもらった気がする。ジャガイモはうちにあったもの。前の区長の良徳さんが来ていろんなものを炭火で焼いて食べる。少しの炭火でゆっくり焼いて食べるのはいい。
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