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ゆれたことを思いかえせば [いろいろ思うこと]

その朝、神戸までの朝早い新幹線に乗るためにまだ暗いうちに起きていた。朝はいつもそうするように、ラジオのスイッチを入れて朝の些事をしていた。そのラジオから今から仕事でゆこうとしている神戸で地震との速報。
その日は大阪のやまちゃんのところに泊めてもらう予定だったが、まもなくそのやまちゃんから電話があって、ここもだいぶ揺れたけど気をつけてきて、といった。
それからのラジオの速報が尋常ではなかった。
誰に確認したのか覚えていないが、誰かに確認したのだろう、そして、今日はキャンセル、神戸には行かないということになった。
阪神淡路大震災の朝だった。

その日の飛行機に乗って予定通り中米に発った。アトランタでトランジットし、そして、ニカラグアに着いた次の日だった。大家のじいさんが部屋にきていった
「日本が大変だ、早くテレビを見に来い」
CNNの画面に「緊急」の真っ赤な文字が点滅していたが、何が映っているのかはほとんどわからなかった。ただ、その映像からはとにかくとてつもないことが起こっていることが伝わってきた。
3.11の前々日成田を発っていた。

山形で結婚式を終えて、次の日東京に帰った。
かみさんと一緒に夕方部屋にもどって間もなくだった。不気味な大きな揺れだった。速報では新潟の中越が震源という。田んぼ遊びをさせてもらっているところだった。その後、そこには田んぼ遊びではなく足を運ぶことになった。
新潟県中越地震だった。

僕がまだほんの小さかったころ。
路地をはさんだ隣の古い土壁の倉にむかっておしっこをしていた。僕自身は揺れた覚えはない。家から飛び出してきた母は、おしっこが終わったか終わらないかの僕をさっとかかえて壁を離れた。その一瞬後、そこに土壁が落ちて土埃がたちあがった。
新潟地震だった。

何を言いたいわけではないが、地震の思い出をちょっと並べてみた。
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佃、地下鉄、いびつなりんご [いろいろ思うこと]

北海道で教師をしていた夏休み、山形の母のところに帰り、そしてそこから数日ほどの東京旅行にでかけた。
今となっては行ったところで覚えているのは佃島界隈だけだが、他のところにしても若者が遊びに行くところでも観光地でもなく、およそ20代前半の青年が行きたがるようなところではなかったように思う。

1980年を少し越した頃の佃島は時代から取り残されたようなところで、岸辺や小舟を留めるそのさまには東京などという言葉は遠く不似合いで、むしろ江戸を偲ばせるおもむきだった。住吉神社にしても、ただそこにささやかに居場所を保ってひっそりとたたずんでいた。時計の電池が切れてしまったように、何も変わらずに止まっているようだった。
東京大空襲から辛くも逃げ延びた佃島の家々のたたずまいと路地のありようは、何ともいえずにいい風情だった。人と人との距離を遠からず近すぎずに、微妙にいい間合いを作っているような気がした。縁台が似合う生活の空間だった。

ポケットサイズの東京の地図帳を持ち、それを片手に見知らぬ街を歩き回っては慣れない地下鉄に乗って、また違う街へと移動した。
地下に潜って地下鉄を待つと、暗い緑色の蛍光灯をシャッシャッと切って四角いハコが目の前に停まる。無言で降り無言で乗るひとたち。ハコの中では誰もが通夜のように口を閉ざしている。座席に座ってもいつも居場所がない感じだった。もちろん誰かと話しをしたかったわけではない。ただ、みんなはいったいどうしてしまったんだろう、と思ったのだった。都会を知らない僕には、不思議な光景だった。

ある午後地下鉄に乗ったとき、僕は腹がへっていた。朝から歩きっぱなしでお昼を食べていなかった。膝にのっけたショルダーバッグを開けてりんご※を取り出した。出がけに母が持たせてくれたものを持ち歩いていたのを思い出したのだ。
「いいがらもってげ」
母が持ってゆきなさいと用意したりんごを、荷物になるからいいと断ると、母はこんなふうに言った。
大学に帰るときにも、東京に暮らすようになって東京に帰るときにも、母はよくこんなふうに言ってなにかしら持たせてくれたものだった。
両手の中に小さくいびつな赤りんご。りんごをさすって、その形や皮のざらざらとした感触が伝わる。既製品ではないのだ。
鉄とコンクリートと直線の地下鉄、人さえもが無機質に感じられる中、僕らはともに生きている有機物なのだと思う。工業製品ではないのだ、このいびつさはふたつとないのだと。


どうしてだろうか、佃島と地下鉄といびつなりんごがセットになって思い出される。
東京に暮らすようになって地下鉄は生活の必需品になったが、それでも地下鉄に乗っていると、ふとした瞬間に自分の手の中にりんごがあってほしいと思うことがある。僕は今りんごを手にしていたい、と思うのだった。
ある時、あのころの佃島を探しに行ったことがあった。ま新しい高層住宅がドッドッと天をつくように建ち並ぶ。そこを抜けるコンクリートの道の脇の電柱には「佃」の文字が読めるのだけれども、僕が探しているのはこの佃島ではなかった。
空は建ち並ぶ高層住宅に切り裂かれて、小さく哀しげに見えた。結局僕は、記憶のかけらにさえ出合うことはできなかった。











※旬ではない真夏に出回っていたあのりんごは何という品種だったのだろうか。今のようにりんごといえばフジというような時代ではなく、個性の強いいろんな品種がそれなりにあった。そういえば、庭にはすっぱすぎて誰も食べない青りんごの木もあった。




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金継ぎ [いろいろ思うこと]

友だちと読谷村の「やちむんの里」のとあるギャラリーに行ったときのこと。
そのギャラリーは、白木の床で隅には大きな囲炉裏が切られていた。そして、棚や床に焼き物がそれぞれの個性を無言で主張して並んでいた。
日差しの強い真夏の沖縄の昼前、裸足をとおして床に体の熱を吸い取られ気持ちがいい。
一通り見せてもらった頃に
「コーヒーを入れましたから」
と、奥様のやさしい声。
ギャラリーの隅のL字型のカウンターには体格のいいご主人が座っている。ぼくたちもカウンターに勧められてコーヒーをいただく。ご主人は、曰く「水」を飲んでいる。
ご主人とありきたりな挨拶に始まりすぐに陶器の話しになったが、一家言あるご主人のこと、話すにつれ自然と話しに熱を帯びてくる。それに「水」とは泡盛だとすぐにわかったが、それだけにまた口の滑りがいい。
どうした流れだったか「金継ぎ」の話しになった。それまで、僕は金継ぎという言葉を知らなかったが、金継ぎというのは陶磁器が欠けたりしたときの伝統的な修理方法の一つで、簡単にいうと欠けたりひびの入ったところに漆を接着剤として塗り、そのあと金を塗って仕上げるという方法なのだそうだ。
ご主人は続ける。
修理した跡には、ときには何ともいえない味わいが出ることもある。だから、人によっては敬愛する作家の作品をわざと欠いて、自分でそれを金継ぎして、作家の作品の中に自分の金継ぎをいれる。つまり、作家の作品に自分の作品を組み入れてしまうというのだ。

沖縄にいたときのことだからもう3年以上も前のことになるが、どうしてだろうか、ふとしたおりによく思い出す話しだった。

最近になって僕は思う。人の心だって陶器と同じように欠けやすい。人間関係だって壊れやすい。長いこと使っていれば手を滑らせることだってある。長いこと生きていれば人とぶつかることだって少なくない。そして傷つけたり傷ついたり。
振り返れば、僕は欠いてしまった関係を平気で捨ててきたことがなんと多かったことかと思う。そうしたときのことやらを思い返せば、ああもっと大切に継いできたらもっと豊だったろうなと思う。周りには丁寧に金継ぎをして生きている友だちもたくさんいるというのに。
怒りや憎しみやわだかまりや、そうしたものをおたがいにゆっくりと補修してゆく。その金継ぎの跡はきっと素敵だろうと思う。時間をかけ手間を惜しまず、しっかりと継ぐ。そんなふうにしてできた人間関係の金継ぎがたくさんあったらかけがえのないひとつの茶碗になるのだろう。
僕はそんなふうにはできないで生きてきた。これからもそんなにすっと何かを変えることはできないだろうと思う。不器用な人間だからと括っていいのかどうかはわからないが、そのひとりには違いない。


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ベルリンに残された魂 [いろいろ思うこと]

彼女もまた人に会うためにベルリンに来ていた。

僕がベルリンのユースホステルに泊まったのは、20年近く前にここに泊まったことがあったからだった。
「写真の場所」に行くために、なるべく朝の早い時間に出かけたかった。だから、ロビーもまだ暗い時間に、開くのを待ってひんやりする食堂に入った。一番客のひとり客。
バイキングスタイルの朝食で、黒パンなどのパンやハム・ソーセージなどが種類多く並べてあって、ドイツらしいなあと思う。
プレートに盛ってきたものを食べ始めたころに女性がひとり入ってきた。彼女はプレートのあと最後にコーヒーを注いで、それからどこに座ろうか左右を見わたして、僕の目の前に来た。

座っていいですか?
もちろん。

目が合った。20代の後半だろうか。長い黒髪で黒目が大きく、端正な顔立ちだと思った。

どこから?
イスラエルから。あなたは?
僕は、日本から。ちょうど100年前に医学の勉強のために留学に来ていたご先祖さまがいてね、そのご先祖さまは写真が好きだったんだけど、ベルリンで撮った写真が何枚かあって、その同じ場所を尋ねて写真を撮ろうと思ってね。
へえ、そうなんだ。でもドイツ語は話せるの?
全然話せないよ。知っているのは「イッヒ・リーベ・ディッヒ」※だけ。使ったことないけどね・・・。あなたはドイツ語を話せるの?
私は、私が知っているのは・・・「ヘンデ・ホーホ!」だけ。「手を挙げろ!」っていう意味よ。

彼女は自分で手を挙げてそういった。そしてうつむいてパンにバターを塗った。
あのことなのかなと僕は思う。イッヒ・リーベ・ディッヒは、ひどい冗談だったと後悔した。

僕は両手の中の白いマグカップに目を落とすと、ココア色の飲みあとが丸く残っていた。
僕はホットチョコレートのお代わりに立った。
テーブルにもどると、彼女はひとり語りのように続けた。

おじいちゃんがここで死んだらしいの。そのときお父さんはまだ1歳だったんだって。お父さんはどうにか助かったの、だから私がいるわけだけど。でもね、おじいちゃんは・・・、遺体も見つかってなくてね・・・。
・・・
私の国の人は、今でも決してドイツの車を買わないわ。

と最後に言った。そして、忘れていたことを思い出したようにパンやフォークやマグカップを口に運んだ。
そして、しばらくしてまた言った。

あっ、それから、えーと、そうそう、CHIUNE※、知ってるわ。ありがとね。

彼女の瞳が一瞬優しく輝いて僕を見て、顔の輪郭が緩んだ。
そう、あの時代のことだ。アウシュビッツしかなかったわけではないし、『アンネの日記』のように文字になっていなくても、たくさんのユダヤの人たちが同じような残酷な体験を強いられた。気の狂ったHの力の及ぶところなら、どこででも同じことがあった。
それから彼女はまた言った。

この国にいて、どこにいっても楽しいことなんかないから、たいがいは美術館や公園に行って時を過ごすのよ。

そんな心の温まらない時を過ごすことはわかっていても、それでも祖父に会うために、祖父の魂に会うために、どうしても一度は来なければならないと思っていたのだろう。

僕は、ご先祖さまが撮ったベルリンの写真を七枚持ち歩いていた。それが僕にとっては、100年前にここに留学に来ていたご先祖さまに出会う鍵だった。
彼女も僕も、死んでしまった人の何かを探しに、何かに出合うためにベルリンに来ていた。
亡くなってしまった人に会えないことなんか知っている。でも、魂は残っている。このベルリンに。ベルリンに生きている。
彼女はおじいちゃんの魂に会えただろうか。ベルリンに魂を残したままの会ったことのないおじいちゃんに。











2011年10月のドイツの旅のこと
※I love you の意
※杉原千畝
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つなみ桜 改メ てんでん桜 [いろいろ思うこと]

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

で始まる『方丈記』、鴨長明は美しく含蓄深いこの冒頭の文章で始めて、そのあとに大火、台風、飢饉、それに大地震のことなどの災害があったことを延々と列ね、それから方丈庵での生活・想いを記している。
地震のところでは、元暦2年(1185)にあった大地震のことを書いている。2012年ー1185年=827年前のこと。もちろん僕らは生まれてはいなかったわけだけれど、その地震について書いた部分のシメに次のように書いている。

昔、斉衡(さいかう)のころとか、大地震ふりて、東大寺の仏のみくし落ちなど、いみじきことどもはべりけれど、なほこのたびにはしかずとぞ。すなはちは、人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にしのちは、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。 

ざくっと訳すと
昔、齊衡の時代のころだそうだが、大地震が起きて東大寺の大仏の首が落ちたりするなど凄いこともあったったが、それでも今回の大地震ほどではない。地震の直後には誰もがこの世の無意味さ(無常であること)をいったりして、ちょっとは邪心もなくなり心もきれいになったように見えたけれども、月日を重ね、年月を経てしまったら、そんなことを口に出して言う人さえいなくなった。

この地震は「元暦の大地震」といわれるのだそうだ。「あの地震はすごかったそうだよ」などと伝え聞いている人はいまはなく、地震の専門家か古典の専門家か、雑学の王様が知っているだけになってしまった。

ところで、日本の国歌がはっきりと決まるまで僕はひとりで「日本の国歌を『さくらさくら』にしよう」運動をしていた。桜が嫌いだという人にあったことはないし、日本人のメンタルに桜はしっくりくる。桜はいいと思う。一応歌詞をあげておくと、

さくらさくら
野山も里も 見わたすかぎり 
霞か雲か 朝日ににおう
さくらさくら 花ざかり

または

さくらさくら
やよいの空は 見わたすかぎり
霞か雲か においぞいずる
いざやいざや 見にゆかん

下の方が古い。僕は上の方になじんでいるが「いざや見にゆかん」さあ花見にゆこうといっているのだからなんだかのんきで、こんな感じもなんだかいいじゃないですか。
どちらにしても、シンボリックにさくらが咲き誇る日本の里山の美しい風景を思い起こさせる。大切にし守ってゆかなければならないものはそれほど多くはないように思うが、その一つが歌い込まれていると思う。
そしてその故郷としての美しい自然を愛おしく思う日本人であり続けよう、というのが国歌だったら素敵だと僕は思う。

津波が押し寄せた線に沿って桜を植えるというプロジェクトが動き始めている。こんなところまで津波がおしよせたのだと後世にしっかりと伝えるためだ。
時が経てば美しく咲き誇るようになり、いざや見にゆかん、花見の宴もあるだろう。そして3月11日を語り継いでゆくだろうと思う。
あえて言えば、遠く時間が過ぎれば人は忘れてゆくかもしれない。
それでも、こうして今深い想いをもって桜を植えることがすべてで、それでいいのだと思う。
僕は心の中でこの桜に「つなみ桜」と名付けた。美しく咲きますように。


(3月23日追記)
今日ラジオで聞いたには、三陸の方には古くから「津波てんでんこ」という言葉があるのだそうだ。津波が来たら、親や子どもを捜したりせずに、てんでんばらばらででもとにかく避難しなさい、という意味なのだそうだ。たしかにそうしておかないと、助かる命が助からなくなってしまう。僕の田舎では「てんでんこ」という言い方はしなかったけれども、「津波てんでんこ」というのはよく伝わっていいと思う。
つなみ桜もわるくはないけれども、「てんでん桜」に改めた。「津波てんでんこ」伝わりますように。(合掌)
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雪だるまが温泉かぁ・・・ [いろいろ思うこと]

どこかの温泉の岩風呂に、雪だるまの親子がふたりして入っていた。
さわやかなやさしい日差しが注いでいたから露天なのだろう。
温泉から立ちのぼる湯気の向こうに親子が目を細くして気持ちよさそうにしていた。
目が覚めて、雪だるまが温泉か・・・、と思う。
他愛もない夢だった。

何の授業かわからないが、イッセー尾形が講師で
「人生がすばらしいと感じながら生きるには何が必要か」
というテーマで小論文を書くようにいった。夢の中で僕は悩んでしまった。
目が覚めて、すぐに小論文のテーマをメモしたのでこうして残っていた。

夢には、日々の疲れを捨てるための夢もあれば、
何かしら意味のある夢もあるのだろう。
見るのはいつも他愛もない夢ばかり。

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ホルツブンゲの森にて [いろいろ思うこと]

ドイツ北部デンマークの国境までわずかのところにあるホルツブンゲという村に友人夫妻を訪ねました。ホームの向こうに、はにかむ彼の姿を見たとき、少し背が丸くなったなあと思いました。以前伺ったのは、アフリカのビクトリアの滝でお会いした年の冬でしたから、じつに20年ぶりの再会でした。
村には古い煉瓦作りの家々がぽつんぽつんと建ち、その中の奥さんの生家に暮らしています。周りの牧場では馬たちが草を食み、さらにその外れには赤ずきんちゃんがとことこと歩いてきそうな森が、丘を這うようにして広がっていました。
晩秋の森の中では、小鳥のさえずりさえも聞こえず、僕たちの踏む枯れ葉の乾いたかさかさという音がするだけでした。風が木立のどこか向こうから遠慮がちにやってきて、すうと頬に触れて去ってゆきました。この風がいつまでも透明であるように心の中で祈りました。
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昨年の10月、中米を旅している間に大西洋を渡ってドイツに行きました。ベルリン留学していたご先祖さま須藤憲三先生の足跡をたどるのと、ホルツブンゲという小さい村に住むハーゲンスさんご夫妻を訪ねるためでした。上記の文章は、数少ない年賀状に書いたもの。何人かから好評だった由、アップしてみました。
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歴史から学ぶこと [いろいろ思うこと]

「歴史は繰り返す」とは有名な言葉。ローマの歴史家の言葉らしいが、詳しくは知らない。
歴史が勝手に同じことを繰り返すわけではない。繰り返す(繰り返してきた)のは総体としての人。人がその昔やったことがあるのと同じことを繰り返してきたから、「歴史は繰り返す」といったのだろう。
この言葉が人口に膾炙しているのは、私たちの中に歴史という自分とは関係ないもののせいでそうなってきた、という潜在的な思いがあるからなのだろうと思う。いずれにしても「私たちが」同じことを繰り返してきたといっているのではなく、「歴史は(自然に、勝手に)同じことを繰り返してきた」といっている。
善し悪しはさておき、今を作っているのは私(たち)なのだ、私(たち)の責任なのだと受け止めないないかぎり、何も変わらず同じように繰り返すのだろうと思う。※

歴史から学ぶこと学ばなければならないことは多いのだろうと思う。
しかし、まず最初に歴史から学ばなければならないのは、

「私たちは歴史から何も学んではこなかった」

ということだと思う。














※大江健三郎は『ニューヨーカー』誌に「歴史は繰り返す」として書いている中に、フクシマについて、
「・・・地震や津波などの自然災害と同じように、広島の経験は記憶に深く刻まれているはずです。・・・人の命を軽視するという過ちを繰り返すことは、広島の犠牲者の記憶に対する、最悪の裏切り行為です。・・・」と。
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マハトマ・ガンディーのことば [いろいろ思うこと]

今日、こんな言葉を聞いた。

マハトマ・ガンディーの「七つの社会的大罪」というもの

理念なき政治
労働なき富
良心なき快楽
人格なき学識
道徳なき商業
人間性なき科学
献身なき崇拝

原爆のキノコ雲が浮かび、映画「ディアハンター」のロシアンルーレット、
六本木のなんとかエモン、政治屋の面々、十字架にキスをする何とか法王のポスター、
・・・・・
様々なものが次々に浮かんできた。ただ浮かんだものをあげただけだ。

このことばは、いまから80年前にガンディーが
「もし、このまま資本主義が進んだときには・・・」
という警告のことばなのだそうだ。

一貫して反原発を訴え続けてきたある科学者※は言っていた。
反原発を叫び始めた頃は誰も耳をかさず、日本に原発は3基だった。
原発は増え続け、私の歴史は敗北の歴史だった。
でも、絶望はしていない。
科学者として、日本には原発がなくとも充分なエネルギーがあることがわかっている。
私は、原発はあってはいけないと叫び続ける。





※小出裕章氏 講演会『隠される原子力』
http://www.youtube.com/watch?v=4gFxKiOGSDk&feature=related
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本当のことが書いてある本 [いろいろ思うこと]

一日1ページ。それがきまりだ。
一日の仕事を終えて家に帰り、夕食をとり、そして、
「ああそうだ、本を読まなければ」と思い出してその本を取り出す。
そして、前の晩にしおりをはさんだ、その次のページを開く。
そのページしか開くことはできない。

そのページには昨日のページと同じようなことが書いてあることもままあるが、
同じことが書いてあること決してない。
誰も一度も見たことはないけれども、知っているような気のするものがかかれている。
・・・そこにあるのはページを覗き込んだ自分自身の顔。
そのページは全くゆがみのない反射率99.999%の鏡でできている。

どのように見ようとそれは自分自身で決めることができる。
じっと覗き込んでもいいし、すぐに閉じてもいい。
もちろん、本を開かないということを選択してもいいが、
何年も開かないでいると、その本は開かなくなる。
開く前にお化粧してもいいし、帽子を深くかぶってもいい。
見たいようにみることができる。
いずれにせよ、
どのような自分であろうと、それが今日一日を終えようとしてゆく自分自身。

その鏡に向かって嘘をつくことはできない。
嘘をついたことさえ本当のことだから。




・・・というのはどうでしょう。ちょっとミヒャエル・エンデを気取ったような。ちなみに一巻が365ページあるこのシリーズが、先日52巻目に入った。

川崎の庭師と枯れすすき [いろいろ思うこと]

「昭和枯れすすき」のことを考えていたら、川崎で庭師をやっているK君のことを思い出した。
枯れすすきに興味はないのだが、YouTubeで僕の大好きなちあきなおみを聞いていたら、彼女がこの曲を歌っているのを見つけてしまい、ファンとしてはついつい聞いてしまった。

♪ 貧しさに負けた〜
  いえ、世間に負けた〜

彼女が歌うと、ちょっとリアルで怖いのでお勧めはしない。まあそれはさておき、この歌詞、どうしてだろう、すっきりこないなあと思っていた。この二人はいつも「戦う」ことをしてきたのだという感じが、僕にはすっきりと受け入れられないのかなと思う。「負けた」というのは「世間と戦ってきて」「負けた」ということなのだろうか。この二人にとっては「世間と戦う」というのはどういうことだろうか、などと考えてしまった。
僕自身のことを振り返って、たしかにスタジオマン時代には、ちきしょう負けてたまるか、と思ってやってきた。そう思ってくじけないようにと頑張ってやってきた。だからといってそれは、そのスタジオマンの仲間をけ落とすことではなかった。自分がカメラマンになりたいと思って、そのステップとしてスタジオマンになって、なりたいと思ったカメラマンにならずにこのまま途中でやめて田舎に帰ったら人生悔しすぎると、僕は思ったから。だからちきしょう負けてたまるか、とやってきただけだ。
独立してからは、もちろん編集部を回ったりなどの営業はしたが、しかし、それは雑誌や広告を作る人にひとつの選択肢を提示しただけであって、つまり僕を使う側の選択の問題でしかない。同じトマトでも、この料理にはこの品種のトマトがいいとか、サラダにはミニトマトとか、煮込むから安くて量があるのがいいとか、料理する側が選ぶ。トマトは料理人を選ばない。トマトにとって大切なのは、こうなりたいと思ったトマト自体になること。そうすれば料理人が適所に使ってくれると思っている。さまざまな事々は自分自身のありようの問題ではないかと感じている。そういう意味では自分の中での葛藤はあったし、それを戦うという言葉を使おうと思えば、自分自身と戦ってきたといえなくもない。好きな言い方ではないが。

東京にいる頃に、「友達がカメラマンになりたいって言うんですけど、話聞いてもらえませんか」
という相談をよく受けた。カメラマンになりたいという人が、世の中にはたくさんいるものだと思ったことがあった。あるとき、年下の友達のK君から電話がきて、庭師(植木職人といった方が良いのか)として独立することになったので、フリーとしてのやってゆくにあたってのアドバイスが欲しいということだった。アドバイスは別としても、久しぶりに奥さんと一緒に家に来てもらってみんなで晩飯を食うことにした。
アドバイスといわれてもなあ、電話のあと僕は考えてしまった。フリーとしての心構えか、なんだろうね、いったい。僕自身考えさせられる。僕自身はフリーとして何を大事にして、何を信条(もしそんなものがあったらだが)にしてやってきたのだろうか。

やってきたK君夫妻と久しぶりの会食。何年かぶりだったと思うけれど、ビールやワインのグラスをななめにしたり縦にしたり逆さまにしたり、箸を持ったり置いたりしながら、そうそうこいつのこの真っ直ぐな感じがいいんだよな、と久しぶりにK君を感じる。
K君はときおり独立してやってゆく不安を語った。フリーという個人商店を開業する不安。自分はいったいやってゆけるのだろうか。この道を通るとき、僕もそうだったが少なからぬ人がそう思うのだろう。そうしたときに、彼自身の中ですっと腑に落ちるような言葉が、そんな何かよすがにできるような言葉がK君は欲しかった。毎日使う鍋のようにいつもの棚にあって、はいと出せればよかったのだろうと思うが、あいにく僕は探しあぐねていた。

僕は、なんとなくではあるけど、そりゃあいろいろあるだろうけど、K君は庭師としてやってゆけるよ、と感じていた。
人は人の何を見てそう思ったりするのか、僕は知らない。ただ、彼を見ていて改めてこの真っ直ぐな感じとか実直な感じとかそういったものがいいんだよな、と思う。誠実という言葉がぴったりくる感じがする。きっと一回一回の仕事を、K君は誠実にやってゆくのだろうと思う。そういうことを人は厳しく見て感じ、何かを選択しているのだろう。自分の大事な庭を、どういう人に手入れして欲しいだろうか。それはカメラマンにとっても全く同じなのだろう。もちろん、どちらにしても技術があってのことだが。青いままのトマトは残念ながら食えないから。

ビリー・ジョエルは

♪「誠実」なんとむなしい言葉
    誰もが嘘を重ねる ・・・        ※

と歌った。誠実であること。僕は思う。なんと心豊かなことか。
チベットで出会ったある農夫と家族を思い出す。麦の刈り入れ作業をしている昼休みだった。農夫と奥さんと二人の子供とおばあちゃん。ぽっかりと白い雲の浮かぶ青い空の下、高く積み上げた麦の穂を背にして、マントウ(饅頭)とバター茶でお昼を摂りながらなんということもなく楽しそうにしていた。幸せを絵に描いたような風景だった。そのとき彼らを見ながら、ああこんなふうな心持ちで生きたいと思った。農夫の日々の生活は日々の生き方ありようを写し出す。大地は嘘を聞き入れない。春に耕して暑い夏に毎日汗を流しそして秋に収穫するように、それを生き続けるのは決して楽ではないのだろう。収穫するまでに長い時間がかかるように、「誠実」が実るのにも長い時間がかかるのだと思う。
対義語は知らないが、たとえば「虚偽」という言葉からはお金持ちになったときの杜子春にたかる人々が思い浮かぶ。なんと空虚で孤独な風景であることか。

今年の初め頃にK君夫妻を含めその仲間で会ったとき、彼は
「厳しいですけど、どうにかやってます・・・」
といっていた。今時たいがいのことは厳しい。

そこで、枯れすすき夫妻のことに戻る。生き方はみんな違っていていいわけで、こうして世間と戦うことを否定しているのではなくて、みんな好きなように生きたらいいと、本当にそう思う。それにこの枯れすすき夫妻を、誠実でなかったなどというつもりもない。この二人は二人なりの誠実さでやってきたのだろう。どうしてもうまくいかないとき、人にはそんな致し方ないときもあると思う。ただK君の生きているベクトルの方向とは、あまり近くはないかも知れない。
自分自身のことはよく見えない。秋に収穫できるような生き方をしていられたら幸いだと思う。


 






<おまけコーナー・You Tubeちあきなおみの曲ランキング!>
ちあきなおみのことはかならず書こう、いずれ書きたい、ひょっとしたら書くかも知れない、と思っているけれどもいつのことやらなので、勝手におすすめを。

☆ビギナーがとりあえず一曲は、やっぱりこれかな・・・
「喝采」
http://www.youtube.com/watch?v=wk3Q3XxLjkU&feature=related
☆聞いて楽しくはないけど、ちょっと凄味のあるところでは・・・
「朝日楼(朝日の当たる家)」
http://www.youtube.com/watch?v=wsE2NsWnGqs&feature=related
☆ファドに傾倒していたちあきなおみ、女の情念を歌いあげます!!!
「霧笛」
http://www.youtube.com/watch?v=fwU_K2EX6eE&playnext=1&list=PLC08355575CA9F1F2
☆ちあきなおみの本領を堪能するには(好き嫌いが激しいことが予想されるけど)・・・
「ねぇあんた」
http://www.youtube.com/watch?v=z2pJk7fvkbs&feature=related
☆個人的に好きな曲としては、ちょっと月並みですが(って知りませんかね)・・・
「黄昏のビギン」
http://www.youtube.com/watch?v=VcsDsOEU3B0&feature=related
☆ノスタルジックななんか切ない雰囲気のこんなのはどうでしょう・・・
「祭りの花を買いに行く」
http://www.youtube.com/watch?v=d_Nw3gEjwv4&feature=related
☆おまけのおまけ「タンスにゴンのCM ちあきなおみ×美川憲一」
http://www.youtube.com/watch?v=VhPrY9zU48c&feature=related
(「昭和枯れすすき」選外)



※ Billy Joel の「Honesty」たまたま僕が見たものでは誠実と訳してあったので、そのまま誠実と。

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甘噛み [いろいろ思うこと]

このあいだの猫も甘噛みができなかった。じゃれついてくるのはいいのだけれど、じゃれて咬みついて爪を立てたりすると、痛い。ンガと咬みつきキイと爪を立てるものだから痛い。ほかにも甘噛みのできない(できなかった)猫を何匹か知っている。
仲間同士でももちろんだけれど、違う動物である人間に対して痛さの微妙な具合を感じ取るのは高度な学習なのだろうと思う。いったい猫や犬はいつどこでそんな「甘噛み」を覚えるのだろうか。
生まれてから仲間や兄弟とじゃれ合ったり、母猫に甘えたり、そんなことをするうちに相手の痛さの具合を微妙に感じながら相手に対するいたわりを学んでゆくのだろうか。つい先日聞いた話では、国によっては仔猫仔犬のごく小さいうちの売買を禁止していて、それは、小さいうちに母猫(犬)と一緒にさせて、充分にスキンシップをとらせるためなのだという。
甘噛みのできない猫の生まれ育ちを聞くと、あまり恵まれているとは言い難いのが多いような気がする。甘噛みは愛され体験に関係するのだろうか。
S大学のS先生が「相手のことに思いが及ばない大学生が非常に多い」といっていた。ひきこもったり、暴力的になったり、なかなか人と繋がってゆけないという。
「あなたが噛んだ、小指が痛い・・・」自分の指を噛んで、このくらいの噛み具合だったら次の日まで思い出に残る痛さだな、などと練習するわけでもないだろう。

小さな火 [いろいろ思うこと]

30代のころ、ネイティブアメリカンというか、インディアンというか、僕としては敬意を込めて赤い人というのが今のところしっくりくるのだけれど、その人たちの逸話や諫言やことわざなどを好んで読んでいたことがあった。その頃の僕には心に響く話や言葉がたくさんあって、大切なことをたくさん教えてもらったように思う。
その中でも、僕がよく思い出す好きな言葉は、

大きな火は近くに寄れないから寒いが、
小さな火は近くに寄れるので暖かい。

言葉尻の正確さはともかくとして、そんな意味だった。友達にもそういう「小さな火」の人がたくさんいる。小さな火はいい。体にも、そして心にも。
いまどき「赤い人」というと一般的には侮蔑的なニュアンスが感じられてしまうかも知れないけれど、大地や風と一体となって生きてきた彼らに敬意を持っているし、誤解がなければ幸甚。
彼らをなんと呼んだらいいのか、僕は知らない。彼らの中にはインディアンという呼称に誇りを持っている人たちもいると聞くし、あそこがアメリカになる前からいるのにネイティブアメリカンというのも変だし・・・。

テニスコートのローラー [いろいろ思うこと]

中学から高校の途中までテニス部にいた。今思い出しても「テニス」はあまり似合わなかった。それはさておき、練習のあとには荒れてしまったコートにブラシをかけてならし、その後ローラーをひいてコートを絞める。中学の頃はどうだったか忘れたけれど、高校ではそれは1年生の役割だった。電車の都合もあって最後までいないで帰ったりもしたので、実際にはあまりローラーを曳いてはいないかも知れない。それに毎回かけた訳でもなかった。
ローラーは曲がる。あんな大きく重い円筒形のものが案外とまっすぐ曳けない。コートの反対端までいって振り返ると、ローラーの跡がぐにゃぐにゃに蛇行していて、なんというか、がっかりする。真っ直ぐ、まっすぐと意識してやるのだが、どうしても曲がってしまう。
ある時こんなことをしてみた。コートの廻りに張られているボール止めの緑色の金網のある一点を見て、そこだけを凝視してローラーを曳いた。そうしたら、振り返ったそこにはすっきりとした直線が残った。美しいと思った。
簡単なことだった。ある一点を見つめてそこに向かえば、真っ直ぐ進む。自分が歩いてきたところを、今歩きながら「真っ直ぐ」かどうかを見極めるのは難しいと思う。向かうところあるいは目標を、実は見ていないか、そもそも目標をもっていないことが多いのだろう。このやり方なら真っ直ぐに目標に向かって確実に一歩ずつ近づく。足下ではなく遠くを見ているから、躓いてころんで擦り傷ができたりはするだろうけれど。

釣りをするのは [いろいろ思うこと]

僕の田舎には、湿地のくぼみがそのまま湖になった白龍湖という湖があった。小学生の頃にそこで釣りをしたことはあったが、釣れたことはなかった。
それ以来、釣りということをしたことがなかったが、沖縄のうみんちゅの町、糸満に来てから釣りを始めた。まだまだの初心者。
最初は、ハリス(釣り糸)に針の結びつけかたも知らなかったし、リールを扱うのも初めてだった。どういう縁か、大家さんが釣具屋をしていて、そこで教えてもらうことも多かった。
「釣り」は人によって本当に意味が違う。たとえば、漁師が生活のために釣るのから、キャッチアンドリリースというものまで。ちなみに、僕は釣ったら、食う。

僕が懲りずに釣りをするのは、竿を通して手から二の腕に、そして全身に魚の「野生」が伝わるからだ。どんな小さな魚でも、野生を感じる。今の日本で野生の動物の力と対峙することは他にもあると思うが、一般的なことではほかにちょっと思いつかない。
その野生の力は、僕の中にある何か古い記憶に触れるような気がする。太古の昔むき出しの自然の中で生きて、狩猟をしていたころの、そんな何か。
釣りを始めてしばらくした頃、黒鯛(正確には、南洋黒鯛、沖縄では俗にチンという)の40センチを釣った。そのときの興奮といったらたとえようがない。知人に自慢をし、写真も撮って。夜布団に入ってからもその興奮は冷めず、興奮で自然と体が動いてしまうのだった。・・・それは、男たちが大物をしとめた夜、村人たちがたき火を囲んで遅くまでお祝いをして踊り騒いだような、そんな記憶に通じるような。
太古から連綿と受け継がれてきたたとえばDNAと呼ばれているような何かが、自分自身の中で振動し始め、自分の体や心の何かを呼び覚ましてゆく感じは、いい。

ちなみに、魚に小出刃をいれる前には、手を合わせる。

「マーラが与えた人生」 [いろいろ思うこと]

「百万本のバラ」という歌が流れていた。プレゼントしたいんだったら、百万本でも一千万本でもするのは、それはそれでしたらいいと思う。ただそれを、好きな女の子の窓下において、遠くから様子を見ていたら、広い意味でいえばストーカーになってしまう。しかも見栄っ張りの。「曲はいいのになあ」と思っていた。

貧しいなかで百万本ものバラをプレゼントしたい気持ちがあるのなら、ちゃんとそちらまでうかがって、気持ちの言葉を添えてプレゼントしたらいいと思う。でも、「会ってもらえないかも」「嫌いだといわれるかも」「迷惑だといわれるかも」「・・・」いろんなネガティブな言葉が頭をよぎり、不安が増大しそしてその不安がまた不安を生んで、そしてやったことといえばストーカー行為。勇気を出して気持ちを伝えない限り手に入らなかったのに。そのかわり、一本のバラでも充分だったかもしれない。

そんな不安は今の日本でも同じように増殖しているように思える。見えないところまでカビが根をはわせるように。そして、食い尽くされ絶滅しそうなのは「勇気」。「不安」は何もしなくても増殖するが、「勇気」は行動をしなければ増殖しない。「勇気」はそれを形にしないと育たない性質のものなのだ。何もしないでいると、「勇気」はだんだんと心の中で声を上げなくなってしまう。

ちょっと話はそれるが、『金色夜叉』の貫一、あの有名な
「来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる・・・」(正確ではないと思うが)
しかも、来年再来年、十年後、死ぬまで今月今夜を忘れない、というあの男。それに
「月が曇ったらば、宮さん、貫一はどこかでおまえを恨んでいると・・・」と脅迫も。そのうえあろうことか、熱海の海岸でお宮さんを足蹴にする。今で言うDVですよね。お宮さんはその後も幸せに暮らせなかったという話だったと思うが、僕個人的にはお宮さんは貫一と結婚しなくてよかったと思う。本当によかったと思う。(富豪のところに嫁いだのがいいのかどうかは別として)ついでながら、後日、貫一は復讐のために高利貸しになる。・・・考えてしまいます。

閑話休題(もどっても閑話だが)。
「百万本のバラ」という曲の原題は「マーラが与えた人生」というものでラトビアの曲です。歌詞は全く違っています。
詳しく、またわかりやすい解説が下記に(原曲の訳詞あり、曲を聴くこともできます)
http://byeryoza.com/topic/log2006/mara.htm
上記のところを読むと(以下引用)
「マーラとはラトビア地方に伝わる聖母で、ラトビアと言う娘を産んだものの幸せは与えられなかったと言う意味が含まれているのではなかろうか?”これはお前の定めなんだよ”と諦めにも似たラトビアの悲しみが込められていると私は解釈しています。スウェーデンに、ポーランドに、ロシアに蹂躙された小さな国ラトビア。幸薄い母娘3代の人生を通して、ラトビアを語っています。」
また、
「子守唄のような優しい語り口に込められた”悲しみ”を汲み取ってみてください。最後に小さな子供がサビの部分を歌っています。ドキッとすると同時に”ラトビアはどうなるのだ?”と 突き落とされるような思いと共に、この歌が作られたソ連真っ只中の出口の見えない時代に引き込まれる思いがしてしまいます。」
とも。
ラトビア語のこの歌を聴くと、勇気を出して幸せをつかもうにも、あまりにも大きな時代の波の中で、ただ翻弄されるしかなかった悲しみが響いてくる気がします。
そしてまた、「自由」と書いて「フアン」とルビをふって生きているような感じのする今を考えさせられます。


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尊敬している医師 [いろいろ思うこと]

特に尊敬している医師が二人いる。
いちばん尊敬しているのは、
野口英世。
彼の「てんぼう」と呼ばれるようになってからの人生、
伝記を読んで涙がにじんでしまう。医師として本当にすばらしい人だったと思う。
二番目に尊敬しているのは、
ケーシー高峯。
同郷(山形)の先輩。小さい頃、南陽市民会館でケーシー高峯を見た。
そのときはなんとも思わずに見たけど。
ケーシー高峯の舌癌になった話があって、それが完治してめでたし
なのだけれど、話の落ちとして、「二枚あるうちの一枚を切って、今はこのとおり」
と笑いをとって、そのあと「でもすぐまたもう一枚生えてきた」
というのが、いいと思うのですが、ケーシー先生いかがでしょうか。
ケーシー先生、すきだな。
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ひとことで・・・ [いろいろ思うこと]

東京の小さな居酒屋で友達と飲んでいた。下北沢だったろうか。
その晩はなんだかご機嫌でだいぶ酔っぱらっていたと思う。
中座してトイレに入った。朝顔に向かってするべきことをし始め、
見ると、目の前の小さな紙にこんな言葉が書いてあった。

ひとことで愛が生まれ
ひとことで愛を失う
ひとことで人を殺し
ひとことで人を救う
ひとことの重み 
ひとことの暖かみを
知る人になりたい

用を足してすぐにまた手帳を持ってトイレに戻った。壁に手帳を押し当てて
酔っぱらった頭でボールペンを動かして、一字一字書き写した。
この言葉は今も手帳に挟んである。

こんなことを聞いたことがある。
中島みゆきのお父さんは医者だったそうだ。
そのお父さんがまだ幼かった中島みゆきにいった。

「怪我をしたときにつける薬はあるけど、
 言葉で人を傷つけたときにつける薬はないんだよ」

と。
冷たい言葉で人を傷つけたことは、今思い出しても胸が痛み、
そして、それをどうしようもない感じは、内臓が鉛に変わってゆくような感じだ。
この痛みは壺の中まで持たされる。
ひとことの暖かみを知る人になりたい。

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授かりもの、預かりもの [いろいろ思うこと]

数日前になるがラジオの深夜放送に山本一力さんがでていた。
「命」「絆」というのがテーマのようで、山本さんは
「命は神様からの授かり物で、・・・」というようなことを語っていらした。
授かりものであることの理由やら、「命は命をつなぐもの」というようなことを
語っていらした。話題のテーマに絆ということもあったから、そのような話にも
なったのだろうと思うが。

何のラジオ番組で聞いたのか、秋元康さんが言っていたのだけれど、・・・・・・
「結婚するにあたって、先方の両親に『お嬢さんをいただきたい』ということを言いに行ったんです。
そしたらお父さんは
『子どもというのは、神様から預からせてもらって、育てさせてもらったもの。
これからは君に預かってもらうね』といったんですね。・・・・・・・」
と。そのようなことを。

「授かりもの」「預かりもの」。
「授かりもの」というとき、命は(たとえば神様から)授かった、頂戴した(自分自身の)もの、ということになると思う。
「預かりもの」というとき、命は自分自身のものではなく、(たとえば神様から)貸してもらっている、ということに。

自分の心臓は僕が動かしているのだろうか。フッと止まってしまうとき、それは自分自身が止めるのだろうか。僕にはよくわからない。でも僕には、自分自身の命は自分のものではないのではないか、と思える。僕には僕が心臓を動かしている感じ、実感はないし、貸し主(たとえば神様)は気まぐれで、何の予告もなくフッと「返せ」と言われるように思えてしまう。
「命は命を繋ぐもの」というのはそれはそうだと思う。だからといって命を繋がない命は意味がないのだろうか。命を繋ぎ続けられなかったネアンデルタール人をどのように意味づけたらいいのだろうか。絶滅した恐竜たちは価値がなかったと言うのだろうか。命を繋いでもいいし、繋がなくてもいいと思う。その時代そこに生きていたネアンデルタール人の一人ひとりに生きている喜びや悲しみがあったと僕は思う。
喜びや悲しみを感じたり、愛したりしながら命はそれでいいのだと僕は思う。
命、貸してもらっているものは、大切に使わないといけない。
魂、これは借り物ではないと思う。大切に育てなければと思う。

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60兆の細胞と、60億の人間と [いろいろ思うこと]

左手の親指を怪我したときにこんなことを思ったことがある。
この傷ついた細胞のことを、右手の薬指のここのところにある細胞はどんなふうに思っているのだろう。そもそもそんなことは知らないのだろうか、それとも俺には関係ない、と思っているのだろうか。
その答えを僕自身は知らない。僕にとってはどっちの細胞も同じように大事だし、そして、僕がわかっていることは、左手の親指が怪我して悲鳴をあげているとしたら、それは明らかに右手の薬指にも影響している、ということ。総体としての僕は、どこかがうまくいかなくなっても全体としてうまくいかなくなる。右手の薬指の細胞がいくら「俺には関係ない」といおうが、総体としての僕自身というか、僕の意識というか、あるいはこの60兆の細胞にとっては「神」といってもいいかもしれないが、「関係している」ということがわかっている。
そんなことを思ったときに、地球に住む僕らのことを思った。60億の人口(もっといるけど)の僕らはどうなのだろう。たとえばテレビで流れるアフリカの食べ物が足りないでいる子どもたちの映像は何を意味するのだろうか。一瞬で何万人も死んでしまった地震の映像は一人ひとりの心に何を残すのだろうか。映像を見なくても、その事実を知らなくても、実は何かを感じているのではないのだろうか。
細胞の隙間に体液が流れているように、人と人の間には空気が流れ、その中で細胞よりは自由な動き方をするけれども、ひとつのなにかの中に一緒にいるのではないかと感じてしまう。
総体としての地球の意識を、僕は感じることができない。それはその中では僕が一個の細胞としてしか存在できないから。だけども地球としての総体の意識といってもいいし、宇宙の意識といってもいいかもしれものの存在を、あり得ると思うことは、そう難しいことではないかもしれない。


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今年の桜は [いろいろ思うこと]

桜の季節になると思い出す話がある。
東京で仕事をしていたころですが、ある大手の保険会社の方の取材に行きました。その保険会社の入社案内のパンフレットの仕事だったので、もちろん仕事の話を聞いたのですが、どうした話の流れか、その人の個人的な話になりました。
彼は数年前に大病をして、医師からあと何ヶ月と、宣告されたのでした。その間どのような思いで過ごしたのかは聞きませんでしたが、数ヶ月が過ぎて春を迎えました。
彼が花見に出かけて桜を見たときのことを
「その年に見た桜は、本当にきれいだった」
と言いました。そう言った彼の目は遠くを見つめて、そして、うるんでいました。少し哀しげでさえあったように思えました。僕が、ファインダーを通して見ていたので大きく間違いはないでしょう。彼は何かをこらえるようにして「本当にきれいだった」といったのです。これが最後の桜か・・・、という思いで見た桜でした。
僕は、
ああ、こんな思いで一瞬一瞬を生きられたらいいな、
ああ、人生がこんな瞬間の積み重ねだったら素敵だろうな、と思いました。

こんな話を思い出したのは、昨日の朝ラジオの「文学のしずく」というコーナーで、坂口安吾の「桜の森の満開の下」という短編の朗読を聞いたからかもしれません。
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雪五尺 [いろいろ思うこと]

10年くらいも前になるだろうか、黒姫山の麓に住んでいる知り合いのところに行く途中、たまたま小林一茶が最後に住んだ家を見た。家というよりも土蔵というかまあそんな物で、土間と一間あるだけで、そして小さな窓があった。質素なものだった。長野県信濃町、冬は寒いことだろうと思う。
「これがまあ 終の棲家か 雪五尺」
数はどのくらいだったか思い出せないが(最近よく「記憶」が頭の中でかくれんぼをする)一茶はとってもたくさん俳句を作っていて、その数を知ったとき、「この人の頭の中は5と7でできている!」と驚いた記憶がある。ず〜〜っと5と7で物事を考えないとこんな多くの句はできないと思った。
「一茶さん 頭の中を 覗きたい」
「あれれまあ なんでそんなに できちゃうの」
「五と七で 頭の中が いっぱいね」

俳句はかさばらなくていい。この次生まれてくるときには荷物の少なくてすむ仕事をしたいと思う。
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がんがらおじい [いろいろ思うこと]

僕の住んでいる集落に「がんがらおじい」と僕があだ名したじいさんがいる。がんがらとはこちらの言葉でカンカラ。アルミ缶を拾い集めて、国吉商店という大きなくず鉄や廃材を扱っているところに持って行っていくらかにする。引き取り価格はキロ100円かと思う。
このおじいは、昼といわず深夜といわず集落にあがってくる坂道をリヤカーをおしてゆく。今日も車で坂を下りてゆくときに、がんがらを山にしてリヤカーを押して登ってきた。すれ違うときに見ると、がんがらおじいは缶コーヒーを左手に持ってなんだか楽しそうな風情。一仕事してきた充実感といってもいいような感じが、短く白い無精ひげのなかに見える。。
仕事に貴賤はない、というのは昔から知られる言葉。がんがらおじいの仕事が貴なのか賤なのかしらないしどちらでもないかもしれない。けれども、がんがらおじいの仕事っぷりはいい。自分の仕事をちゃんとしているように見える。仕事に貴賤はないかもしれないが、仕事の仕方にはたしかに貴賤はある。がんがらおじいの仕事の仕方は貴いと思う。
仕事のあとの缶コーヒーはさぞ美味しいことだろうと思う。
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カモメ [いろいろ思うこと]

何で読んだのか思い出せない、寺山修司だったろうか、カモメのジョナサンの話ではないと思うが。あるカモメが早く飛ぶことに挑戦する。全てをかけてより早く飛ぼうとする。より早く、より早く。そしてある時、空気の抵抗があるから早く飛べないのだということに気づく。神様に「より早く飛べるように空気をなくしてください」と頼む。神様は空気をなくし、空気のなくなったカモメは飛べなくなった。というはなし。
相撲にはあまり興味がないが、最近の話題をたまたま読んだ。「モーニングなんとか」という人が、その人が自身が勤めていた日本相撲協会を悪くいっていた。その人が「モーニングなんとか」でありえたのは、まさにその組織がありそこにいたからこそなのに。
朝・・なんとかが、久しぶりにカモメを思い出させてくれた。彼の体格は飛べそうにはないが。
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